メッセージをどうぞ



お正月休みが終わったある日。レッスンの準備をするため西尾東高校2年の英語の教科書 LANDMARK LESSON 9を開けた私は、フェルメールの 『 真珠の耳飾りの少女(c. 1665頃)』に見つめられました。

フェルメール、日本でもとても人気がありますね。テレビの美術番組以外では、 神戸市立博物館で『 絵画芸術 (c. 1666-68)』を鑑賞したことがあるだけですが、私、フェルメールが大好きです。 うまく言えないのですけれど、彼の絵は映画みたい。人びとが日々生活し想う、 その一場面を切り取ったような絵には、一瞬なのに時の流れがあり、 それが穏やかで静謐な光と空気をまとって描かれていて、とても惹かれます。

彼の絵について知りたいしご紹介したいと思い、私は期待をこめて、教科書の Secret of Vermeer’s Paintings を読みました。 でも内容が考えていた方向と違っていて(去年のちゃたーの記事『宇宙=音楽』のときみたいに)、 読むほどに考えるほどに混乱に陥りました。今日はそこらへんのことを書きますので、 どうぞお付き合いくださいね。

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教科書で私を見つめた少女は『青いターバンの少女』とも言われますが、 その青の絵の具はラピスラズリという貴重な天然石を原材料として作られた天然ウルトラマリンです。 その鮮やかで独特の青は「フェルメール・ブルー」として有名ですね。 でも筆者(教科書)の関心はその少女ではなく、カメラの前身であるカメラ・オブスキュラ。 筆者は彼の絵の特徴(写真のように見える画風、構図の類似性、 同時代のヨーロッパ絵画と比べて小さなサイズ)をあげ、 フェルメールはカメラ・オブスキュラを使ったのではないかと考え、彼の正確な遠近法、 裸眼では見ることのできない光の反射のような小さな点等を根拠として推論していきます。

カメラ・オブスキュラ とは 、暗室を作って壁に小さな穴を開け、光に反射した外部の対象物を、 その穴を通して、反対側の壁のスクリーンに倒立したイメージとして写し出す装置のことです。 16世紀にはその穴にレンズを入れるようになり、フェルメールが生きた17世紀、 彼の故郷のオランダ、デルフトではレンズ産業が盛んだったとのこと。

フェルメールのカメラ・オブスキュラは発見されていないので、 それについては研究者の間で決着はついていないのですが、 筆者は最後のページで「今まで見てきたように、 フェルメールがその装置を使ったと信じるに充分な証拠がある」として次のように述べます。

・・・彼はレンズを通して見たイメージからインスピレーションを受け、それを詳細に分析し、 そこに反射された光の形を捉え、それらを彼の作品に生かしたのではないか。

フェルメールのカメラ・オブスキュラの使用についてはまだ論争中とはいえ、私、 この部分は理解できるんです。でも・・・

17世紀においてはレンズの助けを借りて絵を描くことは斬新であり先駆的である。 もしフェルメールがカメラ・オブスクラを使って彼のスタイルを創りあげたのなら、 それは画家としての彼の偉大さによるものである。

フェルメールの絵画における極意は芸術と科学の融合にある。

The secret of Vermeer’s painting lies in the fusion of art and science.

え? 偉大な画家、芸術家、科学者って、誰もが斬新であり先駆的なのでは? それにこの場合の科学とは、カメラ・オブスクラのレンズ=当時の最新テクノロジーのことだけれど、 「芸術と科学の融合」なんて、他の多くの芸術家がその恩恵に与ってきたのでは? と疑問を持った私。

だって、絵画の革命児と呼ばれた印象派の画家たちの戸外制作や鮮やかな色彩は、 科学の時代といわれる19世紀に飛躍的に進歩した画材(チューブに入った、 豊富で規格化された絵の具や絵筆)があったから、 また点描をその特徴として知られる 新印象派 の画家たちのさらに明るい画面は、 最新の光学や色彩理論を用いたからといわれています。 これは「芸術と科学の融合」ではないのか、と混乱した私。

突然フェルメールの風景画『 デルフトの眺望(c. 1660-61)』が思い浮かびました。 フランスの作家マルセル・プルーストが「この世で最も美しい絵」と評したと言われる名画ですね。 誰かが「なぜならそこに芸術と科学の融合があるから」と言ったとしたら、大笑いするだろうと思った私。

とまあいろいろ考えましたが、「芸術と科学の融合」の意味は不明です。 「こんな大きなテーマをまとめるには教科書の字数では説明不足じゃないの。それと、 結論が不明瞭なのは、それが過度に一般化されているからじゃないの」と、 私は混乱の原因を教科書に求め、この件に一応の終止符を打つことにいたしましたが・・・ 皆さまはどうお考えになりますか。 「理解できないのはちゃたーの頭のせいじゃないの」でもなんでも結構ですので、 ご意見を伺って納得したいちゃたーでございます。

今日の最後に: 文章を書くことは難しい。

01/20/2015  





あけましておめでとうございます。

遅ればせながら読者やゲストの皆さま、昨年は本当にありがとうございました。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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時って本当にあっという間に過ぎていくものですね。 お正月だぁ、と思っているうちにいつの間にか終わってしまった休暇です。

そのお正月休みのこと。実家での新年会が、とある中国料理店で行われることになり、 実家から「前もってだいたい電話で注文しておきたいから、食べたいお料理を決めておくように」との連絡が入りました。 私たちには、大勢で丸いテーブルを回しながらのお食事会なんてめったにないことです。 レストランのホームページからメニューをプリントアウトし、 「あれも食べたい、これも食べたい」と、悩みながらも楽しい時間を過ごした私でした。

さて当日。このメニューを持って実家に行き、皆で検討しているうちに私の食欲はさらに刺激されてしまいました。 結果どうなったかというと、お料理が運ばれてくるたびにテーブルに目を光らせ、 私が注文したお料理が遠くにあると、食べられてしまうのではないかと不安になり、 お皿が前にくると待ちきれないように小皿に取り分け、あっと思った時にはデザートも食べ終えていました。 車で家に帰る途中、私、自分のこの態度にびっくりしました。事前の注文は時間の節約のためで、 好きなだけ食べ注文したらいいのだから、もっと悠然と優雅に構えることができたはずです。 「この年になって恥ずかしい!」と反省したとたん、実家で父とのお食事会を思い出しました。

今は亡き父が元気だったころ、お正月のメイン料理はすき焼きでした。お座敷で父が牛肉を焼き味付けをし、 皆はそれに生卵につけて食べるのですが、私は生卵(白身だけ)がどうにも苦手なのに猫舌です。 お肉が大好きで、成長に一番必要なものは動物性たんぱく質だと信じてもいた子どもの私は、 後れを取って充分食べられないことが不安でした。皆はバランスよくお野菜とか糸こんにゃくをつついていますし、 競争が激しくてすぐお肉がなくなるというわけではないのに、 私はお肉に火がとおるとすぐ手取り皿に確保していたものです。

そういえば働いていたころの私は、例えば焼肉に連れて行ってもらうと「痩せの大食い」と同僚に言われるほど食べました。
「これを食い意地と言うのなら、私は子どものときから食い意地がはっていたのだ。そして今もかわらないのだ・・・」
そんなことを考えていたら、思い浮かんだ諺がありました。

三つ子の魂百まで:幼い頃の性格は、年をとっても変わらないということ

「私の変わっていない性格が食い意地なんて嫌になるけれど、でも他にもあるかも・・・」と、 未知なる自分に少し興味を抱き、今年は自分発見を新年の抱負にしようかしらと考えたちゃたーでした。


ところで「三つ子の魂百まで」に対応する英語の諺は次のとおりです:
   The child is father of the man.

でもこれですと Politically Incorrect (政治的・社会的に正しくない)かも。そこで言い換えてみました:
   The child is mother of the woman.

こちらもなんだかなぁ、と思われる方、女性でしたら mother を、男性であれば father ヴァージョンをお使いになったら如何でしょうか。


ではでは皆さま:
The Very Best to You This Coming Year!


01/05/2015  






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