典型的文系人間の私は、数学的なものは大嫌いで不得意。ところが物理はそんなに嫌いではありません。 これはひとえに高2の時の物理の先生のおかげです。授業の内容よりも、先生の人柄のせいだと思います。 この先生の物理は授業中の脱線が多く、それもほとんど国語の流れに傾くのでした。 偶然にも「鈴木先生」という方です。

 高2の秋のいい秋晴れの日、鈴木先生は授業中にふと窓の外を見て、「ああ、いい秋だねえ。 教室にいるのは勿体無いような日だねえ」と生徒の気持ちを代弁し、そして「10月は神無月と言うんだぞ、 こういう詩があるんだぞ、ああ大和にしありせば……..」と、にわかに一編の詩を声高く朗詠し、 「長いから全部覚えてないが、薄田泣菫の詩だよ。いいねえ……..」と終えました。

 この最後の「いいねえ……..」の言葉とその時の先生の表情を私はいまもよく覚えています。 そしていまも、「神無月」という言葉を聞くたびに、「ああ大和にしありせば、 いま神無月」の言葉が懐かしくうかんできます。

 詩の一部を紹介しておきましょう。想像上の古代の奈良の都に遊ぶ気持ちをうたったもので、 眺めていると難しそうですが、声にだしてリズムよく読むと、とても気持ちよく読めます。





脱線授業ではありませんが、高1の時の英語の授業でいまも記憶に深く残ることがあります。 英語の先生は「都築先生」というまだ若い人でした。

 代名詞 they の用法の時だったと思います。 「みんな they が出てくると機械的に 彼らは とか 彼女らは とか訳すけど、そうばっかりじゃないんだよ」と前置きして、英語の歌詞を板書して、 いい声で歌ってくれました。そして、「君たちも歌ってごらん」と一節ずつ口移しに教えてくれたので、 そのとき私たちの教室は音楽室のようににぎやかになりました。 隣の教室の子が、何事かと覗きに来たりしました。

 私たちは、そのあたたかいメロディーの歌をすぐに覚え、しばらくみんなでそれを歌ったものでした。 中学生から高校生になって、こんな歌を歌って、なんだか大人になった気がして心が昂ぶりました。 それは ナット・キング・コール の "TOO YOUNG" でした。

 この歌のエンディングの at all は 「アト オール」じゃなくて「アロール」だよ、と都築先生が言い、 「イット イズ ア ペン」式中学英語しか知らなかった私は、 (おお!)と感動したのでした。

 これも、歌詞を書いておきます。私は、老人になった今も、 これが聴こえてくると、いつもいっしょに口ずさみます。







10/31/2017    










熟年の旅人、ドラキチです。今回は世界遺産「アンコール遺跡」を巡る9/24~28のベトナム・ カンボジア5日間ツアーに友人と行ってきました。12世紀初頭に花開いたカンボジア・ クメール王国の象徴アンコール遺跡は想像以上に雄大で、悠久の歴史とロマンを感じさせる素晴らしい遺跡でした。 皆さんにもぜひご紹介したいと思います。





◆世界遺産「アンコール遺跡群」ツアー記◆  
 下の日程をクリックすると、日記にリンクしています    

▶《1日目、2日目》9/25~26


▶《3日目》9/27


《4日目》9/28




◆カンボジアはどんな国?




◆遺産の町シェムリアップ

アンコール遺跡群があるのは首都プノンペンから北西へ約250Kmにあるシェムリアップという町。 ここには国際空港があり今回はベトナムのハノイから空路(約1時間15分)で入国。町から遺跡群まで約7Km、 車で約20分の立地にあり、アンコール遺跡群の観光拠点となっています。



◆今回のツアーで見学した4つの遺跡





◆アンコール遺跡とは?

1992年に登録された世界遺産(文化遺産)。カンボジアの北西部、シエムレアプ郊外のトンレサップ湖北西にある、 400k㎡の熱帯雨林地帯に点在するアンコール朝(クメール朝)の遺跡群。これらは、かつてのアンコール朝の首都の跡で、 9世紀頃からスールヤヴァルマン2世(アンコール・ワットを建設)や、ジャヤヴァルマン7世(アンコール・トムの大部分を建設) など同朝の歴代の王たちが建設を行った。アンコール朝の王都として栄華を誇ったアンコールは、その後、 タイのアユタヤ朝の侵攻によって破壊された。アンコール・ワット(寺院)はアンコール最大の遺跡で、ヒンドゥー教寺院跡である。 (参考|講談社世界遺産詳解)



    ▶ 紹介ビデオ  「アンコール・ワットへのみち」(2015‐2016年)
映像 製作:TVQ九州放送           

    ▶ 世界遺産「アンコール遺跡群」ツアー記


10/25/2017    









  蚤虱 馬が尿する 枕元(のみしらみ うまが ばり or しと する まくらもと)

この俳句は、芭蕉が門人の曽良を伴って奥州各地を行脚した際に、尿前の関(シトマ エノセキ)付近の封人の家 (国境を守る役人の家で庄屋格の家)に泊めてもらった時に詠んだ奥の細道でも有名な俳句のひとつです。

 今から約 300 年ほど前の元禄時代にも、人々が蚤や虱に悩まされていたことがわかりますが、 戦後間もなくの混乱期にもこの虫が爆発的に蔓延し、私たち家族もこの厄介ものにはほとほと困り果てていました。
 戦争も終わり、敵機に脅かされる心配もなくなり、 灯火管制 のための電灯の覆いもとれ、 明るくなった部屋では夜も安心して仕事や読書ができるようになりました。

 そんなある日の夜、寝るために布団を敷き、その上に白いシーツをかぶせ終わった時、父が
「さあ、今日もいつもの儀式を始めるか。」
と言いました。

 私は布団から少し離れた所に新聞紙を敷いて、まず頭を梳き櫛で下から上へ、上から下へと何度も丁寧にとかします。 すき櫛の目は大変細かいので、黒い頭虱(アタマジラミ)がぼろぼろと新聞紙の上に落ちます。すると、 父が新聞紙の上に 落ちた虱を拾い、薬の空き瓶に入れ、ふたをします。 いちいちつぶさなくても瓶のふたを閉めれば虱は窒息して死ぬという寸法です。 妹はまだ小さいので、母にすいてもらっていました。

 それが終わると、私たち姉妹はシャツを脱ぎ、寝まきに着替えます。シャツの縫い目に虱が身を隠すようにひそんでいるので、 虱とりをするのです。中には血 を吸って、コロコロになった虱がいます。体につく虱(コロモジラミ) は頭の毛につく頭虱と違って白っぽいので、吸った血が赤く透けて見え、吸血鬼そのもので不気味な感じです。 それらも瓶の中に入れて、虱退治は終わります。

 次は布団の上の蚤退治です。蚤は小さくてぴょんぴょん跳ねるので、なかなかつかめません。
「あっちだ!こっちだ!」
と大騒ぎしながらつかまえます。
もういなくなったかな?と思うと、畳の隙間に潜んでいたのでしょうか?また1匹、2匹と現れ、 私と妹は「キャーキャー」言いながら、父と母がつかまえるのを応援しているような恰好でした。

 終わった後、父が突然
「ここの住所を知ってるかい?」
と、私たちに尋ねたので、私たちは得意になって、住所を大声で言いました。迷子になった時に困らないように、 父母の名前と住所は幼い妹でもすらすら言えるようにな っていました。
すると、父が
「違う、違う。ここはね、『蚤郡(ノミグン)虱村(シラミムラ)字カイカイ 1 番地』っていうんだよ。」
と言ったので、私と妹はゲラゲラ笑いながら、
「ここは、ノミグン シラミムラ アザ カイカイ1バンチ」
と声を張り上げて、何度も何度も繰り返して言っては、はしゃいでいました。 それ を聞いていた母は
「まあ、くだらない!よくそんなくだらないことを次から次へと思いつきますね。だから、ろくな子が育たないんですよ。 まだ二人とも小さいんですから、変なことを言 わないで下さい。本気にしたらどうするんですか。」
と、怒ったような声で言いました。すると、父がおどけて
「ろくな子とはなんだ!お母さんが変なことを言ってるぞ。二人ともろくな子なんかじゃない、世界一いい子だよなぁ。」
と、言い返しました。

 当時は食べるものさえろくにないのですから、本など 売っているはずもなく、 疎開した時に持ってきた僅かばかりの絵本をぼろぼろになるまで読んでいました。そんな私たちを不憫に思ったのか、 父が夜になると様々なお話をしてくれました。
 父が子どもの頃、大好きだった巌谷小波のお伽噺や、日本や外国の童話、偉人伝、物語など、さまざまでした。 しかし、いつもまじめな話ばかりではなく、時々脱線することがありました。多分、父の創作だったのでしょう。 奇想天外、奇妙奇てれつ、はちゃめちゃな話で、子ども受けしそうな、それはそれは面白い話でした。

 正統派で、修身の教科書から抜け出たような母は、そんな父の話を繕い物や縫物などをしながら、 いつも苦々しく思って聞いていたのかもしれません。それに、後年分かったことですが、当時の我が家は東京に帰りたくても、家は焼け、 住む所もない上に、ひどい食糧難だと聞き、まだ小さかった私たちを連れて東京に戻ることは困難を極めていました。 これから先どうしたらよいのか、簡単には結論が出ないような大きな岐路に両親は立たされていたのでした。だから、 母はあの時、笑わなかったのかもしれないと後で思いました。

 東京に住んでいた大学院生の叔父があらゆるつてを頼って、一生懸命家を探してくれましたが、見つかろうはずもあり ませんでした。英語教師だった父は、戦時中敵性語である英語を教えることができなくなり、やむを得ず会社勤めをし、 その会社の疎開で見ず知らずの山形に来たのです。東京にも戻れず、会社も倒産し、私たち一家はすんでのところで 路頭に迷う所だったのです。
 そんな折に、幸運にも父はまた英語教師として採用されることになり、取り敢えず山形で暮らすことになったのです。

 多分、私が小学3年生の頃だったと思います。ある日、先生がこんなことを言われました。
「虱に良く効く薬をアメリカの兵隊さんが持って来てくれたので、今からその薬をみんなの頭と体にかけてもらいます。 薬の名前はデーデーテーと言います。(デーデーテ ーと先生が板書)今日から3日間はお風呂に入ったり、 頭を洗ったりしないこと。 薬の効き目がなくなるからです。わかりましたか?」
 衛生室(今の保健室)に行くと、マスクをした看護婦さんらしき人たちがいて、 女子はまず頭に噴霧器のようなもので白い粉をかけられ、 次は首から噴霧器を入れ、お腹や背中に、手首から袖の中に、 そして最後はパンツの中にまで全身にかけられました。
 当時の男子は坊主頭だったので、頭には DDT はかけられません。それをいいことに、男子が
「白髪(すらが)のおばあさんが来たー。」
などと言って、女子をからかって喜んでいました。なるほど、友だちの頭を見ると、真っ白でおばあさんのようでした。 DDT には害があるとは誰も思ってもみない、無邪気そのものの田舎っ子の私たちでした。

 その頃は、今と違って毎日お風呂に入るなどということはできませんでした。だから、 5・6 日ぐらいお風呂に入らなくても平気でしたが、白い粉を頭や体にかけられた時だけは、頭が重く、体にも違和感があり、 一刻も早くお風呂に入りたいと思いました。どうにか我慢をして4日目にお風呂に入り、頭を洗った後の頭の軽かったこと、 あのさっぱり感は今でも忘れることができません。

 この DDT が市販されるようになり、我が家でも直径 10 ㎝位、厚さが2㎝ほどの丸い缶に入った DDT を買って来て、 缶をプカプカ押して、小さな穴から出る粉末をシ ーツの上に適当にまいて寝ることになりました。この DDT によって、 いつもの儀式 は終わりを告げたのです。この後、何故か DDT から BHC に変わりました。 この二つの薬は蚤と虱に絶大な効力を発揮し、我が家から蚤と虱は姿を消したのです。


  * 写真は左から DDTの広告、BHCの缶、BHCの広告 です。
  * この記事の画像はクリックすると少し大きくなります。

 私たちが大きくなってから、この蚤や虱退治の話は思い出話として、時々家族間で話題に上りましたが、 DDT の危険性については誰も口にしませんでした。私を含めて、大量の DDT の散布後、 私の学校では異常を訴えた子は一人もありませんでした。
 最近、薬の健康被害が問題になっていますが、私は DDT と薬害を結び付けて考えたことはありませんでした。 だから、両親もほんの少量ずつですが、何のためらいもなく、毎晩のように蚤退治に使っていたのだと思います。

 私はDDTについて少しく調べてみました。幸いなことに粉末の DDT は皮膚から侵入しにくく、 そのために健康被害もなく、大きな問題にはならなかったようです。 このことが安全な殺虫剤という印象を人々に与えたものと思われます。 DDT の散布は学童のみならず、各家庭でも大掃除などの時には、 畳の下にかなりの量の DDT や BHC を散布したものです。 これによって、日本では1950年代にはチフスが撲滅したと言われています。

 研究の結果、DDT の発がん性については顕著な因果関係はわからず、DDT は『人に対して発がん性があるかもしれない物質』 と言われています。しかし、DDT は代謝されずに長く体内に蓄積することがわかりました。私の体内にも、 もしかしたらまだ DDT の成分が残っているかもしれません。

 日本ではいち早く1971 年(昭和 46 年)に農薬登録が失効になり、以来 DDT は販売されなくなりました。 また、先進国でも 1980 年頃までには使用禁止となりました。しかし、発展途上国では、今でもマラリアを防止するなどの用途に、 残効の長い DDT が性能的にもふさわしく、安価でよく効くことから使われているそうです。

 今の時代、体中に DDT をかけられることなど、信じられないような話ですが、実際にこんな恐ろしいことがあったのです。 薬害が少なかったのは、不幸中の幸いだったと思っています。
 今では DDT より、もっともっと恐ろしい物質がたくさんあります。それらを使いたがっている人たちが少なからずいることも 事実です。そのようなものによって、私たちが被害をこうむることが絶対にない世の中であって欲しいと願わざるを得ません。

10/14/2017    








* 画像の上でクリックすると拡大します。  

9/29/2017    






こんにちは。ちゃたーです。
待ちに待ったNFL2017シーズンが始まりました。

開幕戦は9月7日木曜日(日本では金曜日の朝)のサーズデー・ナイト・フットボール。 昨季スーパーボールの覇者で、開幕直前のパワーランキングで1位のニューイングランド・ペイトリオッツが、 7位のカンザス・チーフスに負けて、番狂わせでの幕開けです。

夫の応援するオークランド・レイダーズは2週とも勝ち、いいスタートを切っています。

ところで
NFL (National Football League / ナショナル・フットボール・リーグ)には2つのカンファランス、 AFC(アメリカン・フットボール・カンファランス)と、 NFC(ナショナル・フットボール・カンファランス)があること、 ご存知でしたか。下の画像にある☆A と ★N です。






各カンファランスは、 東西南北4つの Division(地区)からなり、下の画像のとおり、それぞれの地区に4チームが属します。 全チーム数は32ですから、びっくりするほど多いです。




NFL のシーズンは第1週から第17週まで。どのチームも一週のお休み(バイ)を除いて16試合戦います。 私が夫と見始めた最初の頃は、カレッジが土曜日、NFL は日曜日と決まっていましたが、今では週1といっても、 普通に日曜日か、別枠でサンデー・ナイト(日夜)、マンデー・ナイト(月夜)、 サーズデー・ナイト(木夜)のどこかでのプレイです。

今季は木曜日から始まりましたので、日曜日の試合後、すぐ木日曜にプレイしなければならないチームもあるわけで、 そのチームの選手は体力的にきつく、気の毒ですね。

ところでアメリカだったら、日曜日には、数多い試合の中から観たい試合を選択できます。 でも日本では選択肢はないし、週に2つか3つの試合しか見られません。 そこで、どの試合も最後まで気を抜かずに観られるよう、夫は長年あることをしています。

唐突ですが、ラスベガスではありとあらゆるスポーツの試合に賭けることができます。そしてNFLの場合は試合の勝ち負けではなく、 点数差での勝負となります。夫は毎週事前に、ネットのオッズ表から一つプリントアウトし、 全試合で応援チームを選び、架空の掛け金を書き入れるのです。




上の画像は今日から始まる第3週のオッズの一部です。ロサンゼルス・ラムズとサンフランシスコ・49ers の試合では、 私たちの応援チームはロサンゼルス・ラムズ。このオッズでの勝敗予想はラムズに「-2」の点差がついているので、 ラムズが3点差以上で勝てば私たちの勝ち、2点差なら勝ち負けなし、1点ならラムズが勝っても私たちは負けとなります。

スポーツでは何が起こるかわかりません。僅差を争っている展開なら、 2点差なんて最後の何秒かで逆転しても不思議ではないし、10点以上の差があっても、 あっという間に流れが変わったりします。

点差って本当に曲者で、真剣に、ハラハラドキドキしながら最後まで試合を観てしまいます。 予想が当たって応援チームが勝てばニコニコしながらオッズ表の金額に + を付け、負ければ「対戦相手のチームのほうが好きだから、 選んでおけばよかった」「でもそのチーム、絶対負けると思ったし」とかなんとか、試合後もしばらくは興奮状態。

さてもう一つの他愛ない楽しみは、その週の試合を見終わってから、新聞で全試合の結果を調べ、掛け金を集計・累計することです。 今季の第1週では100ドルの損失を出しましたが、第2週は250ドル勝ちましたので、 今のところバランスは +150 ドル。これをプレイオフまで続け、勝っていても負けていても、 その全額をスーパーボールに賭けて清算します。

これで私たちのフットボールシーズンも終わります。 ここ何年か私たちは毎年毎年負けていました。でも2週が終わった時点で、今季は大丈夫かも、と、早くも期待を膨らませた私。 『ガンバレ、ちゃたー家! ゴー・ゴー、レイダーズ!』と皆さま、応援をよろしくお願いいたします。


9/22/2017    



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