あんなこと、こんなこと











































今年の夏は全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)が第100回の記念大会となるため、甲子園には史上最多56代表校が出場し、 去る8月5日(日)に兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催されました。

第1回目の全国中等学校優勝野球大会は朝日新聞の主催で1915年8月18日から8月23日まで大阪府の豊中グラウンドで行われました。 私の父は第2回目の野球大会に出場しました。



私が高校に入学した時、初めて習った数学・解析Ⅰは得意科目でしたが、幾何は何故かあまり好きではありませんでした。
 父にそのことを話すと、祖母の法要で帰省した折、父が旧制中学で使っていた幾何の教科書を土蔵から探し出し、持ってきてくれました。 それは当時の私の教科書とは比べ物にならないほど、表紙が厚く、紙質も良く、教科書というより参考書に近く、すっかり気に入ってしまいました。

     

表紙をめくった見開きのページに、『市岡中学』とデザイン風に書かれた大きな文字が目に止まりました。パラパラめくっていくと、 そちこちに『市岡中学』という落書きのような文字が……。
 何故こんなにたくさん『市岡中学』と書いてあるのかを尋ねると、
「お父さんが旧制中学校の時に全国中学校野球大会(今の夏の甲子園)の選手として、試合に出たことがあったんだよ。 その時、大阪の『市岡中学』という学校に惨敗したので、悔しくてそんないたずら書きをしたんだろうな。」
と言ったのです。
 私はその時まで父が今で言う夏の甲子園大会に出場したことがあるなんて全く知らなかったので、びっくりしました。 野球と言えば、当時は川上選手の赤バットや大下選手の青バットなどが有名でしたが、私の知識はその程度。家族も野球には無関心。 野球のことが話題になることなど、皆無に近かったのです。

父の出場した試合は第2回全国中等学校優勝野球大会で、当時は甲子園球場ではなく、大阪の豊中市にあった豊中球場でした。
 父の学校は東北地方で一校選ばれた岩手県の一関中学校(現在の岩手県立一関第一高等学校)。父は主将で一塁手でした。
「へえ、お父さんが主将だったなんてすごいね。」
「なんにもすごくないんだよ。先生が面倒くさいから、多分最高学年の中で一番歳が多かったから機械的に決めたんだろう。」 と、おかしそうに笑って答えました。

第2回の野球大会は出場校が全国で12校。東北・関東・東海・北陸・京津・大阪・紀和・兵庫・山陰・山陽・四国・ 九州地方から1校ずつ代表校が選ばれたようです。何故か北海道は対外試合禁止のため参加できなかったようです。
 一関中学校(以下一関中)は初戦で第1回の優勝校である京都2中と対戦することになりました。
 よりによって昨年の優勝校に当たるとは…と、その不運を嘆いたそうですが、幸運にも大接戦を演じ、サヨナラ勝ちをしました。 こんな夢みたいな話があるのかと、最初は喜びより狐につままれたような気持ちだったそうです。父も初回に適時打を放ち、 この勝利に一役買ったので、嬉しさもひとしおだったようです。
 その時の詳しい様子がネットに載っていましたので、次に引用させていただきます。

しかし、その喜びも束の間のことでした。翌朝になると、部員のほとんどが腹痛を訴え、下痢をしたのです。試合には校医さんも同行したので、 診察を受けた結果、多分昨夜の夕食の何かにあたった食中毒ではないかということでした。
 現在なら、旅館の食事で食中毒などになれば、マスコミが大騒ぎし、旅館は当然のように営業停止になり、大したことがなくても、 選手たちは検査のために入院させられたかもしれません。しかし、100年も前のこと、学校側も口外などせず、父たちは校医さんに ひまし油 を飲まされ、 悪いものを全部出した上で、下痢止めを飲んだそうです。
 幸いにも下痢は大したことがなく治まったのですが、食事が問題でした。毎回おかゆと梅干と卵では力が出るはずもなく、 最悪のコンデションで大阪の『市岡中学』との準々決勝に臨んだのだそうです。
 結局一関中は8対0で市岡中に完敗しました。しかし、日本男児としての教育を受けた明治生まれの父たちは、無念やるかたない気持ちを胸に納め、 負けたことを事実として受け止め、監督の先生を初めとして誰も、食中毒のせいにはしなかったそうです。
 それに対戦校が地元だったために、応援団の迫力は並外れていて、その雰囲気に呑まれ、 次第に理性を失っていったこともあったようです。 父は市岡中学が優勝候補に挙げられていたことを知り、勝ち目はないだろうとは思っていたそうですが、 手も足も出ず、完敗したのが悔しかったのだと言っていました。

これは父が亡くなってから、叔母に聞いた話ですが、祖父は部員が全員食中毒になったという連絡(多分電報で)を学校から受け、 その後連絡が途絶えたことが心配で、取るものも取り敢えず、大阪まで出向いたということでした。当時は大阪までどの位時間がかかったか知りませんが、 うまく父たちに会えたのかなど、その時の状況をもっと詳しく叔母に聞いておけばよかったと後悔しています。

父の生家は一関中から24kmほど離れた東磐井郡の小さな村にありました。(現在は一関市に合併) 今は学校まで車で30分ほどで行けますが、当時は乗り物など何もない時代で、歩くと4時間半位かかったそうです。 家からは通えないので、寄宿舎に入りました。

夏休みになると、祖母(父の母)から伯父(父の兄)と父宛に、
「おん身らの帰りを千万待ちおり候『夏休み来なば逢はむの親心ただひとすじに待ちわびるかな』
 などと書かれた短歌入りの葉書が舞い込み、生家で飼っている馬の世話をしている人が馬に車を引かせて、 寄宿舎まで2人を迎えに来たそうです。休み明けには、また馬車で学校まで送ってもらったそうです。 私はのどかな田園風景の中をのんびり走る光景を想像していましたが、実際は山また山を越える大変な道だったようです。

英語の教師だった父が夏の甲子園大会に、出場したことを学校の生徒に話したらしく、こんなことがありました。
 ある日、分厚い本を手にした一人の学生が、
「先生にどうしても謝りたいことがあるので来たっす。」と言って、我が家を訪ねて来たことがありました。
 隣の部屋で父と学生が話しているのを聞くともなしに聞いていると、「俺は先生が昔甲子園に出たという話をどうしても信じられなくて、 本屋さんで『スポーツ年鑑?』という本を買って、先生の話が本当かどうか確かめてみました。 友達もあの英語の先生は嘘つきだとか、ほら吹きだとか言っていたからです。
 でも、この本で調べたら、先生の話は本当でした。先生を疑ったりして申し訳ありませんでした。このページを見てください。」 というような内容でした。

父は嘘つきでほら吹きか?でも、生徒がそう言っていたのも分かるような気がしました。その頃の父は、多少痩せ気味で、 身長は5尺5寸(167cm位)、色白で、眼鏡をかけ、どちらかというと学者タイプで、およそスポーツマンらしくなかったからです。

また、こんなこともありました。
 父が夏の甲子園大会に出場したことがわかり、町内会の野球大会に是非出場して欲しいと頼まれたことがありました。 父は歳をとっているので(この時の年齢は52、3歳)速く走れないし、何十年も野球などしたことがないので、 体が思うように動かないからという理由で断りました。
 しかし、町内会の役員さんはバッターボックスでバットを振るだけでいいからと、なかなか引き下がりませんでした。 父は根負けして、とうとう試合に出ることを承諾したのです。

試合当日、私は父に内緒で試合を見に行きました。父が恥をかくとかわいそうだと思ったからです。 第1回目にバッターボックスに立った時は内野ゴロでアウトでした。
 2回目はファウルを3回ほど打った後、カーンという快音が聞こえ、そのボールが高く遠くへ飛びました。ホームランでした。 この日、私は父の野球を初めて見て、ホームランまで打ったので、とてもいい気分でした。
 走れないと言っていた父もホームランだったので、全速力で走る必要がなくなり、自分で走ってホームインしました。 周りの人たちは「やっぱり、甲子園(こうすえん)は違うな(つがうな)。」と言っていたのを聞き、私まで鼻が高い思いをしました。
 父も面目躍如たるものがあったと思います。

そういえば、中学校の時の父のあだ名は韋駄天だったそうです。 韋駄天 のように速く走る父を見られなかったのはちょっぴり残念ではありましたが、 父にもそんな青春時代があったのだと、様々なことが思い出され、 遠い昔々のことに思いを馳せることができた全国高等学校野球選手権大会第100回の記念大会でした。


*

これ は『球史の始まりと激動~戦前の中等野球~』 という題名の動画です。高校野球選手権大会ダイジェスト版で ① [第1回~12回]大正4年~15年の野球の様子を撮ったものです。参考になれば幸いです。


8/10/2018    








神童モーツァルトから「パパ ハイドン」と敬愛されていた、 18世紀の作曲家ハイドンはユーモアに満ちた作品もときどき書いていますが、 びっくりシンフォニーとして知られる交響曲第94番「驚愕」もそのひとつ。 宮廷音楽会に招かれては居眠りをする貴族たちを目覚めさせようと企んだ、 というエピソードがあります。


まず 一番目の「驚愕」。 この時代の編成と楽器を再現して演奏するオーストリアのオーケストラ 「ハイドン シンフォニー」の演奏をどうぞ。静かな18世紀の宮廷で、 貴族たちは驚いたでしょうか。  






二番目の「驚愕」 は、聴衆ではなくて演奏者が眠ってしまうというもの。 これなら起きるとおもいます。演奏は 蒲郡シニア吹奏楽団




三番目の「驚愕」。これはとても面白い仕掛けがあります。映像はありません。 驚かないつもりでいるあなたも、きっと驚くはず。 演奏は マルク・ミンコフスキー指揮 ルーブル宮音楽団 ライブ録音





私は、最近、驚愕1の演奏をした ハイドン シンフォニー のコンサートを聴きに行きましたが、金管楽器はすべて古楽器。 30人ほどのメンバーはずっと立って演奏するというスタイルで、 とても歯切れのいい、明快な演奏でした。

7/4/2018    








今日本中を、世界中を湧き立たせているロシアW杯2018。

日本は1勝もできないかもとの恐怖心で、勝敗がわかってからビデオ観戦してきましたが、 予想外の(ごめんなさい)展開に、私の心にもチームへの期待が膨らんできました。応援ビデオに祈りを込めて、 今はただ、決勝トーナメントへの進出を賭けた第3戦を待つばかり。

がんばれにっぽん!



6/26/2018    








『広報西尾 5月号』の「夏季講座申し込み案内」に目を通していたら、 「夏休み子どもプログラミング教室」を見つけました。2020年から小学校で必修化されるということだし、 プログラミング教育への関心が高まっているのね、と思いつつ内容を見ると、スクラッチ(ソフト)を使うとあります。

もう終了しましたが、私、NHKの番組「スーパープレゼンテーション」で、 子ども向けプログラミング学習言語についてのトークを見たことがあります。 MIT とかそのメディアラボが開発に関係していたことを思い出し、 「スクラッチって、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT) のソフトのこと?」とやろまいネットのミーティングで聞くと、そうだとのこと。

*調べたところ、このトークは2013年9月放送の、ミッチェル・レズニック 「子供達にプログラミングを教えよう」でした。興味のおありの方は
ここ をクリックしてください。 画面左下 Transcript を開けて日本語をクリックすると、日本語原稿を読むことができます。

番組を見た時はその気にならなかったのですが、メンバーから話しを聞くとおもしろそうです。 だんだん興味がわいてきた私は こちら のサイト教えてもらうとすぐに、 Scratch 2オフラインエディタ をダウンロードしました。



上の画像はエディタの画面構成です。私には初めてのビジュアルタイプで、子ども向けだから簡単・・・ とはいきません。スプライトの猫と蝶々のすれ違いの場面を作るだけなのにわからないことだらけで、 試行錯誤の繰り返し。

嫌にならなかったのは、スプライトが個性的で生き生きと可愛らしかったからです。 タイミングよく挨拶できるように彼らを動かしていくうちに、どんどん愛着が湧いてきました。 挨拶の音声は夫と私の声ですけど、夫なんて、自分の声を聞くたびに、 これでいいと言いながらなぜか大声で笑います。 ついつられて私も笑ったり、楽しんで作っていくうちにプロジェクトが完了しました。

でも・・・ Scratch ファイルはできたけれど・・・

ブログにアップするには、まずこのビデオを録画する必要があることがわかり、では録画しようとしたら Scratch から VLC media player をダウンロードするようにとの命令が。 Windows Windows 64bit のどちらを選んだらいいのか、 私はやろまいネットのOさんに助けを求め、ついでにダウンロードと、ビデオ録画の仕方、ブログ用に mp4 ファイルへの変換方法も教えていただきました。 本当に有難かったです。

でも、これでブログにアップだ~!とはいきませんでした。 mp4 ファイルには原因不明の不具合があり、 ブログに埋め込んでもビデオの再現ができなかったんです。最後の手段で YouTube のアカウントを作り、 vlc ファイルをアップしたところ、こちらは成功。


と制作裏話はここまでにして、ではちゃたーの Scratch 作品#1「スクラッチキャット、友達のバグに出会う」をお見せいたしますね。 初めての YouTube でお見苦しい点はあると思いますし他愛ないビデオですが、 少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。



6/20/2018    








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