夏が来れば思いだす…… この歌を知っている人は少なくなったかもしれないが、私は6月が巡ってくる度に、 50年以上も前の尾瀬への旅を雄大な景色と共にほろ苦い青春の想い出として思い出すのである。

 当時、私は同じクラスの友人2人(A子とB子)と女子寮から通学していた。 受講する科目が殆んど同じだったこともあり、3人一緒に学校に行くことが多かった。
 そのうちの1人A子は音楽や絵画、文学に造詣が深く、彼女に文学を語らせればとどまるところを知らないほどだった。 ベートーベンのピアノソナタ『熱情』を全曲ではなかったが弾いてみせてくれたり(当時ピアノを弾ける人は珍しかった)、 卵料理の種類によって蕁麻疹のようなものができると言ってみたり、 物質的に豊かでなかったこの時代に電気スタンドの形や色にこだわりを見せたり、いつも体調不良をかこち、 朝の授業はつらいからと授業をさぼろうとしたりと、どことなく今までの友人とは趣が違い、 凡人の私には計り知れない不可思議な魅力を持ち合わせているような人だった。

 私とB子はそんなA子を驚愕の眼で見つつも半ばあきれながら、授業に出席するように毎日、 毎日懲りもせず声掛けをしていた。卵でアレルギー反応が出るなどということは二人とも知る由もなく、 我儘病だと一笑にふしていた。

 大学の2年の頃だったと記憶している。男子の級友の発案で学園祭の休暇を利用して、 水芭蕉の花が美しい尾瀬へクラス旅行をすることになった。 この旅は山に詳しい男性陣が下見までして計画してくれたもので、 我々女性陣はただついて行くだけでよいというこの上もなく有難い旅であった。 私とB子は憧れの尾瀬に行けるまたとないチャンスに早々と参加を決め、 歩くことに自信がないとしぶっているA子を半ば強引に説得して、とにもかくにも3人一緒に参加することにした。

 出発前に発案者より
 などの簡単な事前説明があった。

夜行列車に乗ることは私には珍しいことではなかったが、 この列車の乗客は殆んどが登山を目的とする人たちであった。 私たちは幸いにも全員座席を確保することができたが、 座席のない人たちは車掌さんの検札がすむや否やすぐに通路に新聞紙を敷き、そこに横になって寝始めた人が、 一人や二人ではなかったことには少なからず驚かされた。
 まだ薄暗い朝の4時ごろ沼田駅に着いたが、若かった私は車中でもぐっすり眠ることができ、 気分は爽快だった。しかし、早朝のため沼田駅からのバスはなく、 次のバス停までかなりの距離を歩かねばならなかった。 沼田駅に着いた時の爽快な気分はどこへやら? 出発早々のかなりハードな坂道には歩くことに自信があった私もいささか閉口気味だった。 A子もなんだかんだ言いながら、何とか最初の目的地にたどり着くことができた時は、内心ほっとした。

 そのバス停からしばらく終点(名前不明)までバスに乗り、また歩いて鳩待峠を越え、 この日の最終目的地の山の鼻小屋を目ざした。途中何度も休憩をとり、景色を楽しみながらも、 延々と続く山道や水芭蕉が咲いている湿地帯の木道をもくもくと歩いた。まさに遥かな尾瀬だった。 山の鼻小屋に全員が元気で到着した時にはただただ嬉しかった。

 夕食は飯盒炊爨でカレーを作るとのことで、 小休止の後、私たちは山小屋の近くの湧水の出る所に行った。 真っ先に男性陣から冷たいジュースのサービスがあった。そのジュースのあまりの美味しさに、 私は「美味しいわ。こんなに美味しいオレンジジュースは生まれて初めてのような気がする。」と言ったら、 男子の一人が「粉末ジュースをこの水で溶かしただけですよ。」と笑った。 その頃出始めた安価な粉末ジュースだったらしいが、私たちは冷たくて程よい甘さのこのジュースにまず癒され、 今までの疲れもいっぺんで吹き飛んだように感じた。

 そして、カレー作りを始めることになったのだが、男性陣が大きなリュックサックで飯盒は言うに及ばず、 カレーライス作りの材料などすべてを手分けして持って来てくれたことに驚くと共に、 ジュースをはじめ、さまざまな面での細やかな気遣いにあらためて感謝せずにはいられなかった。

 私にとっては初めての飯盒炊爨。男性陣がまず火を熾し、米を研ぎ、飯盒でご飯を炊きにかかった。 女性陣はジャガイモや人参、玉ねぎなどを切り、カレーを作った。男性陣の中には数人の山男がいて、 飯盒炊爨などはお手の物だった。我々女性陣はその指示通りに動いただけだったが、 大勢だったこともあり、カレー作りも難なくできた。
 澄みきった空気、雄大な景色、近くには水芭蕉の花。平日だったせいか他に飯盒炊爨をするグループもまばらで、 私たちはこの上もない環境で、大いに笑い、大いに語りながら最高のカレーライスを味わったのは言うまでもない。

 飯盒炊爨の後は東京では決して見ることのできない満天の星空を眺め、星座を探したり、 水面に映る星空に歓声をあげたりした。雑魚寝の部屋に戻ってからは、若者の常で恋愛、文学、映画、 政治など多岐にわたる話題で盛り上がり、A子はここぞとばかり、彼女の本領を発揮し、 嬉々としていた。こうして第1日目は無事に終わった。


尾瀬には至仏山(しぶつさん)と燧ケ岳(ひうちがたけ)という日本百名山にも選定されている2つの山がある。 第2日目はその一つである 至仏山 に登り、長蔵小屋(ちょうぞうごや)に泊まる予定で、朝早く山小屋を出発した。
 日程に余裕があったので、時々休憩をとりながら、 ゆっくりゆっくり登ったように記憶している。何故か、道中のことは殆んど覚えていないが、 頂上から尾瀬ヶ原を眺めた時は、あの湿原を歩いてはるばるここまでやって来たのかと、 感無量であった。
 特にA子が「ねえ、私でも登れたのよ。嬉しいわ。」と言って、はしゃいでいたのが印象的だった。 私とB子は「それごらんなさい。やればできるのよ。 あなたは頭の中でしか物を考えないんじゃない?」などと偉そうなことを言いいつつも、 嬉しさは隠せなかった。
 しばらく頂上で眺望を楽しんだ後、またゆっくりゆっくり下山し、 たくさんたくさん歩いて長蔵小屋にたどり着いた時は、さすがにみな疲れきっていた。
 長蔵小屋 は尾瀬沼の畔にある尾瀬で一番古い山小屋で、 昨夜泊まった山の鼻小屋よりは大きく、風格のある山小屋だった。 その晩は普通に山小屋で夕飯を食べたが、その晩のことはあまり記憶に残っていない。 きっとみんな疲れて、早く寝たのかもしれない。


最後の日は 燧ケ岳 に登る予定だったが、残雪がかなりあり至仏山よりは道も険しく、 初心者には危険だということで、少しだけ登ってみることになった。
 あまり細かいことまで覚えていないが、登山道は石がごろごろしていて歩きにくかった。 道中の展望もあまり良くなく、行けども行けども同じような道だった。 何合目あたりかわからなかったが、引き返すことにし、 しばらく休憩してからバス停のある大清水をめざすことにした。
 尾瀬沼を抜けると、細い林道のような下り坂がかなり続いた。 この道はでこぼこしていて枯れ枝や落ち葉がたくさんあり、女性陣は全員が運動靴を履いていたためか、 みんなよく滑って転んだ。しまいには転んだ回数まで数えあうほどだった。 初日の沼田駅からバス停までの上り坂もかなりきつかったが、この下り坂は足にこたえた。 膝が笑うということを初めて知ったのも、この下り坂だった。
 そんな時、A子が突然道にしゃがみこみ「私、もう1歩も歩けない。 私はここで一休みしてからゆっくり行きます。だからみなさん先に行って下さいな。」と、言った。 それまでA子は普通にみんなについて歩いていたので、 私は自分が転ばないように気をつけるのに精いっぱいで、A子のことまで気遣う余裕がなかったし、 ここまで無事に来たのですっかり安心しきっていた。
 「ええっ!」とみんなも驚いたが、A子一人を残していくわけにはいかなかった。すると、 さすが我がクラスの頼りになる山男君。すぐに「じゃあ、 とりあえず男子でかわるがわるA子さんをおんぶして下りよう。 A子さんの荷物は女性が持ってあげてください。 悪いけど僕の荷物は男性陣で分けて持ってくれるかな?」と言った。
 A子はどちらかというと小柄な方で、太ってもいなかった。それでも、 足元の悪い坂道をおんぶして歩くのは、どんなにか大変だったことだろうと、 男性陣に申し訳なく思った。そんな小道もしばらく行くうちに、やや広い道に変わり、 勾配もゆるやかになった。(写真参照。こんな感じの道だった。)
 そこからはおんぶはやめて、A子は二人の男性の肩につかまり、両脇をささえられながら、 半ば二人にぶら下がるようにして歩いた。どのぐらい歩いたのかわからないが、 かなりの距離だったように思う。

 大清水でバスに乗ってからは、A子は次第に元気を取り戻し、「なさけない。恥ずかしい。 申し訳ない。」などとしきりに言い、恐縮しきっていた。 沼田駅に着いてからは荷物の整理をしたりして、 A子の荷物は私とB子が分担して持って帰ることにした。
 こうして、とにもかくにも無事に寮にたどりつくことができた。その後のことは、 はっきり覚えていないが、多分A子は寝込んだりせず、 3人とも従来どおりの生活に戻ったように記憶している。

 今はマイカー・バスなどを使って簡単に尾瀬に行くことができるようである。 しかし、50年前はとにかく自分の足で歩かなければ、尾瀬には行けなかった。 体力との勝負だったのである。
 私とB子は世間知らずで人生経験も浅く、まわりの友人達もそこそこ健康だったためか、 若者は誰でも自分たちと同じだと信じていた。A子の体調が悪いというのは、 彼女独特の甘えだとも思っていた。私には相手の立場に立って、 他人(ひと)を思いやる気持ちが欠けていたのである。 どうしてあんなに無理にA子を誘ったのだろう?わからない。答は出ないが、みんな若かった ことだけは確かである。

 そんな私達2人にA子は「迷惑をかけてごめんなさいね。」と、 何度も申し訳なさそうに謝ってくれた。「こちらこそ強引に誘ってごめんなさいね。」 と詫びると「あなた達2人のおかげで、あんな素敵な所に行けたんですもの。 あなた達に感謝こそすれ、謝ってもらおうなんて全然思ってないわよ。」とまで言ってくれ、 胸のつかえが少し取れたような気がした。彼女がその後、体調を崩 さなかったのが何よりの救いだった。
 しかし、男性陣にはとんでもない迷惑をかけてしまったという自責の念は拭い去ることができず、 心の中のモヤモヤは晴れなかった。

 私にとってこの尾瀬への旅は、生まれて初めての『これぞ旅!』という忘れられないものになった。 様々なことがあったが、感動の連続でもあった。 私は長年もう1度尾瀬に行ってみたいと思ってきた。でも、 とうとうそのチャンスは巡って来なかった。
 先回のクラス会にそんな話をしたら、即座に何人かが「行かなくて正解でしたよ。 行ったらがっかりするだけですよ。あの想い出は大事にしまっておいた方がいいです。」と、 口々に言った。昔どおりの優しい男性陣だった。そうかもしれない。 私は彼らの気持ちがよく分かるような気がした。

 私の学生時代は、今のように物があふれている時代ではなかった。しかし、そんな時代だったから こそ、人と人とのつながりには得も言われぬ温かいものがあり、心は飢えていなかったように思う。
 ちなみに大学の授業料は年間9,000円、アパートの賃貸料が4畳半で4,500円、 学食のうどんは20円、名曲喫茶のコーヒーは40円、ラーメンは40円、 名画座などの映画館は3本立てで40円、山小屋の宿泊料は1泊2食付で500円程度、 素泊まりなら150円程度であった。
 今思えば古き良き時代だったかもしれないが、その当時はやはり毎日の生活に一生懸命だった。 


6/22/2015    













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