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 私は、東京方面の新幹線の往復では、なるべく山側の席に座ります。晴れた日なら、富士山がよく見えるからです。 上りのときは、山側の席は2人がけなので、たいてい誰か座っていて仕方なく海側の3人がけに座りますが、 下りで東京駅から乗れば、山側の席に座れます。
 いつも不思議に思うのですが、よく晴れて富士が美しく見えている時、多くの人は、ちょっと外を見るだけで、 すぐに本を読んだりスマホいじりを始めます。
 世界一のコニーデ型の単独峰なのに、どうして見られずにいられるんでしょう。私など、3人がけの席から人の肩越しに眺めたり、 わざわざ席を離れてデッキに出て、乗降口の窓から、見えなくなるまで見たりするのです。 少年時代、初めて東海道線(もちろん新幹線はなかった)に乗って上京したときに見た富士山の美しさの感動は、 今も失われていません。


 ところで、昨年秋、御殿場線に乗りに行きました。昭和の初めまで東海道本線だった路線ですが、 昭和9年の丹那トンネル開通以後、ほとんど忘れられてローカル線化した路線です。


 私は、この御殿場線の東京よりの起点「国府津」(こうづ)から箱根山を回って「沼津」まで乗り完乗しました。 そして乗り鉄としての達成感を味わいました。

  

 しかし、この御殿場線の旅は、乗って見るまで分からなかった意外な収穫がありました。この路線は、箱根山塊を迂回しながら、 富士山の東側に近づき、やがて南側に離れて沼津に着くのですが、途中の車窓からほとんど常に富士山が見えているのです。 駅のホームからも見えます。(写真上右

 車窓からはこんな感じです。新幹線からの眺めよりずっと大きく、くっきりと見えます。(写真左
 そして、ふと思いつきました。鉄道からこんなによく見えるなら、バスでもっと近づいてみよう。

 そこで、御殿場駅で途中下車して、駅前のバスターミナルらしきところにゆき、 切符売り場の窓口で「富士山がよく見えるところまでの切符をください」と頼みました。我ながらいいかげんな言い方だと思いましたが、 窓口の女性は「ハイハイ」と簡単に答え、「ドコソコゆきのバスに乗ってナントカの停留所で降りるといいです」と売ってくれました。
 こんな旅人も多いのかな。切符代は900円くらいだったから、かなり遠いみたいです。期待に違わず、バスはどんどん富士に近づき、 富士はどんどん大きくなっていきます。よく見えるところにくると(ここかな?降りるのかな?)と心配になるのですが、 まだナントカ停留所ではないみたいで、我慢して乗っていると、小一時間してナントカにつきました。

 しかし、たしかに富士に近いのですが、そこはなかなか大きなリゾート風なところで、観光バスもたくさん停車。 人がいっぱい。おおきなマンションがあり、別荘が立ち並び、わずかに林の間から半分くらいが見えるだけです。(写真右

 こんな見え方だったら、途中で(ここかな?)と思ったところの方がずっといい。そこならバス停の名前も覚えています。 「浅間神社下」でした。御殿場行きのバスに乗ってきた道を引き返しました。30分ほど引き返したところが富士浅間神社です。

 バス停から、浅間神社の横をとおる古い石畳の坂道を登って富士の見える場所まで行くのですが、なんと、 この石畳の道は鎌倉時代の軍用道路であった、という説明板が立っていました。人が2、3人並んで歩けるくらいの道幅で、 この道を「鎌倉往還」というのだそうです。写真を拡大して見てもらえば、もっとくわしいことが分かります。 600年前からあった道なんですねえ。英文の説明もあり、英語では Kamakura Highway となっていました。 ハイウェーかなあ、とも思いますが、ま、いっか。

  

 ここからの富士の眺めは最高でした。林があるのは仕方がありませんが、とにかく大きく立体的で、見事です。 東側から見ているので、南側からだと見える右肩の宝永火山のコブもなく端正な姿です。 この写真は望遠レンズではなく、標準レンズですが、まるで望遠レンズで撮ったようになりました。


 ここに来て分かったのですが、ここは富士山登山道の入り口、「須走」なのでした。まさに富士に一番近いところなのです。 切符売り場のおねえさんは、ナントカというリゾートを教えてくれたのでしょう。富士登山をするとは思わなかったのは当然ですが、 私の言い方も悪かった。

 写真は撮りましたが、カメラで撮れない感動の方が大きく、この日の富士を自分の心にも深く焼きつけ、帰途につきました。 新幹線三島駅からの富士は、もはやあの立体感がなく、富士の絵を切り抜いて貼り付けたような感じになっていました。  

4/11/2017    







今回は札幌、函館へ去る3/6〜8まで2泊3日の北海道「道南ツアー」へ友人3人と参加しました。 私自身、昨年2月の道東ツアーに続き、北海道は2回目の旅行でした。今回の旅の主な見所をご紹介しましょう。
 



 

名古屋セントレア空港を午後1時30分発の飛行機に乗り、1時間40分ほどで新千歳空港に到着。 空港からバスで札幌市内へ移動。1時間ほど自由散策。 時計台左写真)、 テレビ塔右写真)を見学しました。 写真で見ていた時計台と比べて、実物は意外と小さいのにはビックリです。 周りの大きなビルに囲まれ、余計に小さく感じられました。札幌市内の中心部は、 テレビ塔もあり名古屋の栄の雰囲気に何となく似ています。 札幌市内の観光を終え、今夜の宿 「定山渓温泉」で旅の疲れを癒やしました。

翌朝、宿の部屋から眺めた風景(写真)は曇り空。外気温は-10℃ぐらいですが、 部屋の温度は28℃ぐらいに設定されていて快適というより少し暑く、夜中に暖房を途中で切って寝たほどでした。 宿を出てバスに乗り、今日はこれから1時間ほど先の昭和新山へと向かいます。

 
1時間ほどで最初の観光地 「昭和新山」左写真)に到着。標高398mとそれほど大きくない山ですが、今でも所々で水蒸気が山肌から出ていて、 この山には現在も立ち入りができません。昭和新山はこのすぐ隣には標高737mの 「有珠山」があり、側火山として形成されました。有珠山にはロープウェイがあり、山頂からは左手に洞爺湖が見え、 雄大なパノラマ景色(右写真)が広がっていました。

さらにバスで2時間ほど乗り、新日本三景の一つ 「大沼国定公園」写真)に到着。ここは函館市から北約16Kmにあり、北海道駒ヶ岳の火山活動でできた景勝地。 冬の時期は湖面も一面、雪に覆われワカサギ釣り、スノーモビルを楽しむ観光客で賑わっていました。

 
再びバスで1時間ほどかけて、今日の最終目的地、函館市内に到着です。時折、雪が激しく降るあいにく天気の中、 最初に函館ベイエリアにある 「金森赤レンガ倉庫」左写真)を自由散策。ここには明治期に建てられた4つの赤レンガ倉庫群フロアがあり、 この倉庫を利用したショッピング街や食事が楽しめる商業施設(右写真)は、外国人など大勢の観光客で賑わっていました。

 
赤レンガ倉庫群から1キロほどにある 元町公園へ移動し、ガイドさんの案内でみんなで歩いて散策しました。ここは函館の港を一望できる素敵な観光スポットです。
 「旧北海道庁函館支庁庁舎」左写真)、かつて 老夫婦が手をつないでダンスしたCMが話題となり、チャーミーグリーンの坂と呼ばれる「八幡坂」(右写真

 
元町公園の小高い丘に建つ 「函館ハリストス正教会」左写真)、 「函館聖ヨハネ教会」右写真
 1時間ほどの元町公園散策を終えバスに戻ると、すでに午後5時を過ぎ辺りもすっかり薄暗くなっていました。 ここから3キロほど先の函館市内にある 「湯の川温泉」が今夜の宿です。

 
 
翌朝、今日でツアー最終日の観光となり、再びバスで函館市内の観光です。 相変わらず天気の変化は目まぐるしく、激しく雪が降っていたと思ったら晴れたりの連続でした。
 最初の観光地は 「トラピスチヌ修道院」左上写真)です。ここは明治31年に日本初の修道院として創立され、 現在も規律正しい自給自足の生活を送る修道女がここで暮らしています。 冬の季節はあいにく入り口付近の限られたところまでしか見学できませんでした。
 続いての観光地は 「五稜郭跡」左下写真)。ここは徳川時代の1864年に建てられた日本初の西洋式城郭で、 今は公園として桜の咲く季節は函館市民の花見のスポットです。星形をした城郭が特徴で、この全景写真はすぐ横に建つ 「五稜郭タワー」右上写真)から撮ったものです。橋を渡って入ると 「函館奉行所」右下写真)があり、大勢の観光客で賑わっていました。
 この後、函館朝市で買い物と昼食をとり、道央道で4時間ほどかけて再び新千歳空港へ向かい、 19時15分発の飛行機で帰宅しました。

4/2/2017    






このたび7年ぶりに秘仏を公開する龍蔵院は、小野ヶ谷にある浄土宗西山深草派の小さなお寺です。山号を虎洞山と言います。 寺伝では承和2年(835年 平安時代)の創立で、天台宗の権大僧都鏡観法師が開山したと伝えられています。 その後、文明12年(1480年 室町時代)頃、徳林寺を開山した堯光上人がこの寺に閉居して、 浄土宗に改めたと言われていますが、それ以前の600年間の詳細については不明です。

     


このお寺には、平安時代末期に作られたと思われる西尾市の指定文化財で秘仏でもある貴重な3体の仏像があります。 ご本尊の聖観世音菩薩の座像(行基作と言われ、三ヶ根観音と同木で、その根本の方で作られていると伝えられていますが、 調査の結果は作者不詳です。幡豆町で最も古い仏像だと言われています)と、その 脇侍 としての毘沙門天立像と不動明王立像です。

     

これら3体の仏像は 秘仏 として7年に一度開扉され、 今年がその御開帳の年にあたり、7日間公開 されます。 また、特別公開として、県下で10番目に古いと言われる応永2年(1395年 室町時代)に作られた 鰐口(わにぐち)も見ることができます。
 また、4月1日の最終日には午前10時〜12時頃まで太鼓打ち込み披露が行われます。

今回の御開帳とは関係がありませんが、このお寺には大般若経凡250巻(実際には320巻)があります。 この経典は義経や弁慶、その他家来が写経したもので、二代目の住職の時代に伝来したと伝えられています。 真偽のほどはともかくとして、当時の龍蔵院の隆盛をうかがい知る貴重な資料であることは確かです。

このお寺には『山伏と大般若経』と『しばられた雷どん』という2つの民話が伝えられています。詳しくは 『はずの民話』15・16をご覧ください。 市の広報(3/1号 P13)のお知らせの欄、『西尾を歩こう!ウォーキング』にも載っていますが、 3月30日(木)に幡豆支所北側駐車場を集合場所として(受け付け、9:30~10:30) 龍蔵院 を拝観する催しがあります。


余談ですが、龍蔵院への道は私と友人の散歩コースのひとつにもなっています。ゆるい上り坂ですが、 暑い時期でも木陰があるために涼しく、道の両脇にある水仙や椿、紫陽花、コスモス、 様々な木々などを楽しみながら歩くことができる絶好の 散歩道 なのです。

昨年、この寺でお会いした方(多分お寺の世話方さん?)から、来年の3月には 御開帳があると聞き、神社仏閣の大好きな私はこの日が来るのを楽しみにしていました。 龍蔵院は無住のお寺ですが、無住のお寺とは思えないほど手入れが行き届いているのです。 代々の七番組の町内会長さんやお寺の世話方さん、 住民の方々の手厚いお守りがあってこそ今日の龍蔵院 があるのだと思っています。
 画像と青色の文字にはリンクが付いていますので、クリックしてご覧ください。
3/24/2017    






「もう5年も過ぎたのだから、話してもいいかなぁ」、いえ、 「話せるかなぁ」と言ったのかもしれません。
そのどちらかを問い質しもせず、私たちはY子さんの話に耳を傾けました。

 ホテルの窓から見える日本三景のひとつ「松島」の海に、夜のとばりがおりていました。 少し前まで賑わった2年ぶりの中学校の同期会の高揚が少し収まって、部屋に戻って、 あの日の自分のことを話していました。2011年3月11日のことを。

 一関市の東端、気仙沼市に隣接したところが、私の生地。そこは内陸で、 津波の被害はなかったのですが、地震による倒壊の被害と、 海から風が運んできた福島原発事故の放射能による汚染の被害が、農業、酪農、 林業の全てに影響し、半数以上の子どもたちの体内から3年もの間セシウムが検出されたのです。
 地元の新聞は、毎日放射能濃度を載せ、山のものは勿論、 酪農のための牧草も飼料も北海道から買い入れて牛を育て、特産の野菜も椎茸も販売できず、 3年間は深刻でした。そんな中で海辺の津波の被害にあった人たちへの支援が続けられたのです。

 気仙沼には多くの同級生がいて、亡くなった人もおり、兄弟を亡くし、舟を流され、 家がなくなりと、大変な被害でした。
「その時、あなたは何処にいたの?」
結婚して気仙沼郊外の太平洋の大海原が目の前に広がる階上町(はしかみ) で生活していたY子さんに私は躊躇しながら聞いたのです。 同級生たちは誰もその日のことをよく聞けないで、5年が過ぎていたのです。

 3月11日の大津波に、ご主人が家ごと浚われて亡くなられ、 Y子さんは少し離れた高台で理容の仕事をしていて助かったのです。 海の近くでご主人は自動車の整備工場を営んでいました。
 地震の強さにY子さんは急いで家に戻ろうとし、渋滞に巻き込まれ、 「津波が来るぞ」という警報やサイレンで、小高い所から動けなくなった車から外に出て、 海の方を見ると、真っ黒な塊のような波がもくもくと海を埋め尽くして陸に這い上がって来るのが見え、 引いていく波に、今、目の前にあった家々が、木々が、 浚われて海に消えて行くのを目の当たりにしたと言います。

 そこは、気仙沼大島の端から外れた太平洋が広がる松岩地区でした。 一番被害の大きかった所です。「また津波がくるぞ」と叫ばれ、 そばにいた男の人たちが「おばあさんは大きな車の上に」と、車の上に載せてくれ、 もう一人も加わり車の上で呆然と見ていました。
 次の津波が更に高く来て、乗っている車の上部僅か一尺を残した所まで水があがり、 引いて行った情景は今も消えないと言います。

 地震から4時間後、薄暗くなり、瓦礫の山で道も分からない所を足を取られながら、 夜通し何時間もかけて隣町の家に向かったと言います。電波障害で誰にも連絡も取れず、 3月11日の小雪の中を彷徨ったのです。
 辿り着いた場所には家もなく、ご主人を捜すと、「あちらの方に4人の遺体が」と教えられ、 行ってみると一番端に変わり果てたご主人の姿があったそうです。
 「なんですぐ逃げなかったの」何度もそう言い、 大声で泣いてご主人の冷たい頬をいつまでも叩いていたそうです。
 やがて消防団の人が来て、遺体を集会所にと、 縋りつく手を払って連れて行ってしまいました。その後を追って、更に2時間もかけて集会所に行き、 安置されたご主人のそばで、1週間も一人で付き添い続けたのです。

 仙台にいる子供たちにも連絡できず、調べに来た警官が、 息子さんが宮城県警の機動隊にいると気づき連絡してくれて、 お父さんの死を1週間も過ぎて伝えたそうです。 被災した日から10日間は着の身着のまま、 毎日おにぎり1個、それも本人が取りに行かないともらえない状態だったそうです。
 その息子さんは後日、被災地を訪れた両陛下を気仙沼から一関まで白バイで先導してY子さんを喜ばせ、 その様子が地元紙に載り、被災地を励ましたのです。

 火葬場が空かず、秋田の方まで遺体を運び火葬した人もいて、 6月になって漸く合同慰霊祭になりました。あたりには異臭が蔓延し、蝉のような虻が飛び交い、 大変な状態で、今度は感染症や伝染病などの二次災害が深刻な問題になっていました。

 やがて、避難所の生活が始まりました。窮屈でなかなか眠れない日々、 家族を津波で失いひとりぼっちになった受験を控えた中学生がいて、 その子のためにみんなが力になろうとしましたが、管理責任者の女性は規則決まりに厳しく、 9時消灯を厳守し、思うように勉強もできない状態でした。 周りの人たちは毛布で囲んでやって、灯りを灯して勉強させたと言います。
 ずいぶんひどい管理人さんだと思ったけれど、 その人のご主人も津波で亡くなっていたのを後で知ったそうです。

 なかなか仮設住宅の建設が進まず、次の年の12月にこの避難所が最後の避難所となり、 全国版のNHKのニュースで放映された画面にY子さんが大きく映りました。 その中学生とケーキでお別れの場面でした。私が涙声でY子さんに電話をすると、本人は
「あの日は旦那の月命日で、ちょうど娘からケーキが届いた時だったの。」
と、穏やかでした。結局、仮設が足らず、彼女は友達も呼べないような一軒家を借りて凌いでいます。

 復興は計画通りには進まず、予定より3年も4年も遅れています。 入居が決まった公営住宅の建設もなかなか進まず、入居予定だった時からもう3年が過ぎ、 今も建物の形は見えません。
「新しい住宅は水洗トイレで、お風呂もついていて、きっと友達を呼ぶことができる。 Tちゃん、必ず泊まりに来て。」
と、会うたびにY子さんは言うのです。でも、まだその時は来ないのです。 「来年は出来るよ。」と彼女は言います。子どものいる仙台には行かず、 ご主人の眠る地にY子さんはいたいのです。
 きっと間もなくできると前向きに思って、彼女は健気にひとりで毎日を生き、 近隣の施設に理容のボランティアを重ねて喜ばれ、感謝されて生きています。
 思えば、Y子さんは母親のお腹にいた時、父親が出征して戦死し、 お父さんに抱かれた記憶のない人でした。東北人の我慢強さをいいことにして、 復興を遅らせていないのかしらと思ってしまいます。

 砂の上にわが恋人の名をかけば波のよせきてかげもとどめず

 私の祖母の叔父である 落合直文 が、 故郷気仙沼のお伊勢浜で詠んだうたです。『恋人』という言葉を日本で初めて使ったと、 地元の女子高生から声が出て、このうたが気仙沼の人々の間に広まり、『復興のうた』として、 全国に放映されました。
 波に浚われて消えたのは『恋人の名』ではなく、この浜一帯に住む人々の生活の全てでした。



間もなく東日本大震災から6年になろうとしています。Y子さんから3月11日のことを初めて聞いたのは、 昨年の同期会の時でした。それで、タイトルに敢えて『5年の歳月』という言葉を使いました。

3/1/2017    

















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2/13/2017    



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