1  いぼ地蔵さま

 鳥羽の村におはつという、かわいい女の子がいました。ばあさまと貧しい暮らしをしていましたが、いつも明るく元気な子でした。
 ある年の夏のこと、おはつは手にできたボツボツが気になって、不思議そうに聞ききました。
「ばあちゃん、これ、なんだ?」
「ああ、それか、いぼじゃ。じきに治るで心配せんでもいい。」
 ところが、いぼは治るどころかみるみる増えて、おはつの手は、いぼいぼだらけになってしまいました。
 今まで仲よしだった子どもたちは、「いぼがうつるぞ。」と言って、だれも遊んでくれなくなりました。
 家でしょんぼりしていると、外から、「もう、いいかい。」 「まあだだよ。」とにぎやかな声が聞こえてきます。おはつは戸のすき間からそっとのぞいてみました。そのうち、自分も仲間に入りたくて、表にとび出して行きました。
「あっ、おはつが来たぞ、気持ち悪い。」
「さわったら、あかんしょ。」
 遊んでいた子どもたちは、口々にさけんでにげて行きました。
 おはつはあまりはやしたてられるので、くやしくて、
「いぼいぼ、うつれ。いぼいぼうつれ。」と、泣きながら追いかけました。
「ばあちゃん、このいぼ取っておくれよう。」
 その夜、おはつは泣きじゃくってだだをこね、ばあさまを困らせました。
「泣くでねえ。いい子のおまえがなんでこんな目にあうんかのう。ばあちゃんがきっと、治してやるでな。」
 そうは言ったものの、
(ぬり薬も、せんじ薬も、いっこうに効きめはないし・・・。)
 おはつをだきしめながら、心ではとほうに暮れていました。
 (もう、わしにできることといったら、お地蔵さんにお願いするしかねえ。)と、思いたちました。
 あくる日から、ばあさまは石塚峠のお地蔵さまへ、熱心にお参りを始めました。
「どうか、いぼを治してくだされ。おはつがかわいそうでのう。」
 背中を丸くして、地べたに頭をすりつけて拝みます。
 次の日も、次の日も出かけました。年老いた体に、山道の上り下りはとても難ぎなことです。それでも、毎日休まず続けました。
 そんなばあさまのたのみごとを、お地蔵さまはいつもやさしい顔をして、じつと聞いておられました。
 いつしか秋も深まり、その日もばあさまは雨の中を一心にお参りしました。
「お地蔵さん、このまんまだと、おはつの心がよけいいじけていくみてえで、おらあ、心配でならん。
はよう、治してやってくだされ。」
 いつもより長い間、手を合わせてお地蔵さまの前にすわっていました。ふと顔を上げると、お地蔵さまがうなずくようにほほえまれ、足元の小石がいっしゅん光ったように見えました。
(おお、こりゃ、おつげにちがいない。)

 さっそく、その光った小石をふところに入れて、家へ大切に持ち帰りました。急いでおはつを呼び、そのすべすべした石で、手のいぼをやさしくなでていきました。
「いぼや、いぼ。おはつのいぼや、消えとくれ。」
 ばあさまはじゅもんのように唱えながら、くり返しくり返しなでました。
 十日もたったでしょうか。いぼが一つ減り、二つ減りして、日ごとに数が少なくなっていきました。

 おはつの喜んだことといったらありません。とんだりはねたり、大はしゃぎです。
「ばあちゃん、ありがと。」

「いんや、おらでねえ。お地蔵さんのおかげだ。ありがたい、ありがたい。」
 そう言いながら、ばあさまはおはつの手をひき、近くの川原に行きました。そこで丸い小石をおはつの年の数だけ拾い、ごりやくのあった小石といっしょに洗い清めました。
「この石をお礼にお供えしますだ。貪ぼうで何もありゃせんので、これでかんべんしてくだされ。
ご恩はいつまでも忘れませんでのう。」
 二人は手を合わせ、何度も頭を下げては、お地蔵さまにお礼を言いました。
 後に、この話が広まり、いぼで因っている人々があちこちからお参りするようになりました。それから、石塚峠のお地蔵さまを、「いぼ地蔵さま」と呼ぶようになり、今でも、周りに小石がいっぱい供えられています。

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〔 解 説 〕

 鳥羽の石塚峠を上りきったところにある石塚のいぽ地蔵さまは、永い年月人々のあつい信仰をあつめ、そのあかしとして、ひざのあたりまで小石に埋まって祭られています。 
 他にも、いぽ地蔵さまとして安泰寺の山門前に、また、歯痛によいといわれる地蔵さまが、鳥羽の王塚古墳の上にあります。東幡豆の妙善寺の境内には、耳を病む人が訪れるという地蔵さまがあり、海の巻貝がたくさん供えられています。
 このような現世利益の守護仏としての地蔵信仰を思う時、供えられた石一つにも哀感のただようものがあります




2  五助とひきうす

 鳥羽にまだ塩田があったころのことです。
 迫(はざま)の五介は、天気さえよければ、朝早くから夕方暗くなるまで、塩田の仕事に精出していました。
 塩がたまると、竹かごにつめ、天びん棒でかついで売り歩きます。
「しーおー。塩はどうだえ。」
 道々、声をかけて売りながら、ときには、岡崎まで足をのばすこともありました。
 こうして、塩が売れるたびに、お金が少しずつたまっていきます。
 しかし、この五助、お金はせっせとためますが、出すことは大きらいで、
「けちの五助」とかげ口を言われるほどでした。
 さて、ある年の秋のことです。
 米や大豆や、そばを粉にするひきうすの心棒が減って、役に立たなくなりました。
「ひきうすを買わにゃあならんのう。もう、動きゃあせんよ。」
 おかみさんが言いました。
「おまえの力が足らんずら。」
 五助は人ごとのように答えましたが、それでも自分で動かしてみました。やっぱり動きません。
 うすが使えないと、だんごやおもちができません。仕方なく、五助は買う腹を決めました。となり町まで店を見て回りましたが、どうも気に入りません。
「うすは、たけえもんだなあ。まあ、今度、岡崎へ行ったついでに石屋町で見てくらあ。何てったって本場だ。安く買えるで。」
 おかみさんは、聞いてびっくり。
「ほんな重いもん、岡崎から持ってこれるかえ。やめとかっせ。近いとこで買ったはうがいいぜ。」
 しかし、五助はもう決めていました。四、五日たって、塩売りのついでに岡崎へ行くと、天びん棒とかごを知り合いに預けて、そのまま、石屋町へとんで行きました。
 あるわ、あるわ。あっちもこっちも、うすだらけ。 

 五助は、その中から、ちょっと大きめだが一番安いのを買いました。

「やっぱり半値じゃねえか。おっかあのやつ、びっくりするぞ。」
 五助は用意してきたすべなわで、うすの上と下を別々にからげ、「よいしょ」と、かたにかけました。
「おお、軽いじゃねえか。」
 半値で買えたことが、五助にはよはどうれしかったとみえて、ひょいひょいと軽い足どりで、
来た道を帰って行きます。
 岡崎から、幡豆まで五里あります。それに、うすは大人一人ほどの重さです。
 はじめは、調子よくどんどん歩いたのですが、半分ほど来たあたりから、足の動きがおそくなってきました。それに合わせて、うすも重くなってきました。
「日暮れまでには帰れらあ。」

 そう思いながら、一休みしてはかたをかえ、少し歩くと、また一休みといった具合です。
「とにかく、半値、半値じゃ。」

 そうつぶやくと、少し元気がでます。でも、足がもういうことをきいてくれません。それに、かたが痛いこと痛いこと。
 やっと友国まで来たときには、秋の日はどっぶりと暮れていました。
 さあ、それからが大変です。そのころの石塚峠は、今よりうんと急な細い坂道で、おまけに、小石がごろごろしていました。もう足が動きません。
「ああ、ばかなことしたもんだ。」
 坂のとちゅうで、五助はひきうすを投げ出すとその場にすわりこんでしまいました。
「なんとばか重たいうすだ。こんなことなら、近くで買うだった。おっかあが言ったとおりだ。金、金と思ったばっかりに…。」
 五助は、とうとう泣きだしてしまいました。


〔 解 説 〕

 昭和のごく初期まで、鳥羽から松原にかけての海岸には塩田がありました。塩を作って売り歩く人もいました。
 今、わたしたちの生活は、衣食住のどれもが機械とかかわっています。とりわけ歩くということは、車によることが多くなりました。
 ところがこのお話のころは、生活していくには、丈夫な体だけがたよりでしたから、病気をした時や家を建て替える時のために、働けるだけ働いてむだなお金は少しでも使わないようにと考えていた時代です。お話の五助も同様であったと思われます。
 また、このころの石塚峠は、今より峠が高く坂が急で、峠の付近は両側がうっそうとこもっていました。幡豆町に初めて電灯をつけるため、大八車で岡崎から電柱を運ぶ時、この峠を越すのに大変苦労したようです。




3  すずかえせ

 明治の初めごろのことです。
 鳥羽に、新八という腕白坊主がいました。それも並の腕白ではありません。海や山を走り回っていたかと思うと、いつの間にか畑の中をとび回り、どじょうをつかまえると言っては、田んぼをかきまわすのでした。
 大人になっても、それがいっこうになおらず、よめさんをもらってもいい年ごろなのに、百姓仕事もそこそこにして、海で大きな貝をほったり、山でわなをしかけて、うさぎをとらえたりしていました。
 ある時、うさぎがりの帰り道、大塚の前で清作じいさんとばったり出会いました。
 王塚というのは、鳥羽に古くからある大きなか古墳です。
 じいさんは、村一番のもの知りでした。
「おい、じいさん、こんなとこで何しとるだ。めずらしいもんでもあるかえ。」
「やあ、新八か。わしはな、この塚の歴史が知りたくて、何度も来るんじゃが。やっぱりくわしいことは、中を開けてみんと、ようわからんがや。」
 新八は、じいさんの話を聞いているうちに、だんだんおもしろくなってきました。
「よしきた、おれがほって中を見てやるぞ。」
 新八の言葉をじょうだんだと思ったじいさんは、笑いながら言いました。
「そげなこと、できやせんわい。大きな石のふたがしてあるでな。」
 ところが、新八は、本気で考えていたのです。
 五日後に、家からいろいろな道具を持ってきて、あれこれ苦心して、とうとう塚の天じょうの大きな石をこじ開けてしまいました。
「おお、ある、ある。」
 新八はしばらくながめていましたが、そのうちがっかりしたようにつぶやきました。
「なあんだ、せともんばかりじゃねえか。」
 しかし、よく見ると、その中に一つだけ、こがね色をした小さなつぼがありました。
「こ、これは、ひょっとして、金のおみきすずか?」
 神さまにお洒を供えるとっくりを、「おみきすず」と言うのですが、今まで、金でできたおみきすずなど、見たことも聞いたこともありません。
「へへっ、じいさんが見たら、おどろくぜ。」
 こっそり、新八は金のおみきすずだけを持ち帰りました。

 その晩は、おふくろにもないしょで、おみきすずをまくら元に置いてねました。いや、ねようとしたのですが、なかなかねつかれませんでした。
 少し、うとうとした時です。
「新八、すずかえせ、金のすずかえせ…。」
 どこからともなく、声が聞こえてくるのです。初めは、静かな声でしたが、だんだん不気味なふるえ声になってきました。
「すーずーかーえせ。すーずーかえせ…。」
 天じょうから聞こえてくるかと思うと、えんの下からも、聞こえてきます。外から声がするかと思うと、目の前のかべから聞こえるようにも思われます。

 今まで、おふくろにどなられても、おやじになぐられても平気だった新八も、さすがにこわくなって、ふとんをかぶってガタガタふるえていました。
 あくる日、おふくろにその話をしたら、
「夢でも見たずら、いい年をして、なんだ。」
と、まるで相手にしてくれません。
 そして、二日目の夜もまた、声が聞こえたのです。とても人間の声とは思えないようなおそろしい声でした。
 新八は、体中からあせがたらたら出て、もう生きたここちがしませんでした。やっとのこと、夜が明けかかったので、清作じいさんの所へとんで行きました。 
「おまえは、とんでもねえことをやりおったな。そりゃあ、塚の主じゃ。」
 新八は青くなって、おろおろするばかりでした。
「そのおみきすずはな、きっと塚の主の一番大切な物じゃ。今、すぐにでも、返してこい。」
 じいさんは、新八にさとすように言いました。
「ご先祖さまは大事にせにゃいかんぞ。中に祭ってある物は宝物じゃて。わかったな、新八。」
 よほど身にこたえたのか、新八はすぐにおみきすずを返しに行きました。
 それからは、人が変わったようにまじめに働きました。

〔 解 説 〕

 幡豆町には、五〇基はどの古墳があります。多くは七世妃ごろのものですが、ここに登場する王塚古墳は、やや古く六世妃初めごろのもので、保存状態もよく、身重な古墳の一つです。
 古墳は、古代の集落の首長や、その家族を葬った墓ですが、遺骸とともに多くの土器や刀、馬具、勾玉などの装身具も葬られたので、古墳からはそうしたものが出土します。
 今は、埋蔵文化財として、国の許可なく発堀することはできませんが、昔はそれほどきつい規制がなかったので、古墳が掘り返されることもありました。しかし、このお話のように、たたりをおそれて畑のすみなどに残されている例も少なくありません。




 4  きつねのお産

 鳥羽の迫(はさま)の山おくに、ゴン太という子ぎつねが住んでいました。ゴン太は時々、里へ下りてきて、いたずらしては人々を困らせていました。畑へ入っていもをはり起こしたり、のきしたにつるしてある塩魚をぬすんだりしました。
 だんだん大きくなると、通る人を化かしておもしろがっていました。
 こんな悪さを楽しんでいたゴン太も、そろそろおよめさんがほしくなり、ほうぼうの山へ探しに行きました。すると、八幡の山に、おコンというかわいいきつねのいることが分かりました。
 まもなく二ひきは夫婦となり、楽しく暮らすことになりました。そのうち赤ちゃんができ、ゴン太は大喜びです。
 ある日、おコンのお腹がチクリ、チクリ痛くなりました。おコンは一生けん命しんぼうしましたが、なかなか赤ちゃんが生まれません。
「痛い、痛い、死にそうだわ。」
 ゴン太はおコンの苦しそうな様子をみて、おろおろするばかりです。
(こりゃあ、困った。どうしたらいいだら…。)
 あっちへ行ったり、こっちへ来たりして、どうにも落ち着きません。
(ようし、思いきって、お医者さんをたのもう。)
 ゴン太はさっそくしっぽをたて、二、三回宙返りをしたかと思うと、人間の姿に化けました。そして、一目散に山をかけ下りて行きました。
 日はもう西の山にかくれ、辺りはうす暗くなってきました。
 トン、トン。 トン、トン。
 ゴン太は力いっぱい、医者のげんかんの戸をたたきました。
(はて、今ごろだれだろう。診察の時間はとっくに終わっているのに。急病人かな。)
 そう思いながら医者が出てみると、男の人が立っていました。
「先生、おねげえです。うちのやつがお産で苦しんどります。みてやってくだせえ。」

 何度も頭を下げ、あまり熱心にたのむので、医者として見過ごすわけにもいかず、往診することにしました。
「では、案内してもらおうか。」
 お医者さんはちょうちんを持った男の人に連れられて、ずいぶん長く草むらの細い山道を歩きました。
(はて、おかしいな。こんな山おくに人家はなかったはずだが…。)

 不思議に思いながらも後について行くと、ようやく男の人の家に着きました。長い長いろうかのつき当たりの部屋で、大きなお腹をかかえた女の人が苦しんでいました。
 お医者さんはさっそく、持ってきた道具で赤ちゃんを出してやりました。
「オギヤア、オギヤア。」

 元気のいい泣き声を聞いて、心配そうに立ったり、すわったりしていたゴン太は、こおどりして喜びました。
「めずらしいことじゃ。男の子三人、女の子二人の五つ子だ。親子ともに元気だよ。」
「ありがとうごぜえました。ありがとうごぜえました。」

「よかったな。それではおだいじに。」
 お医者さんは、また、長いろうかを通って、家の外へ出ました。
 すると、不思議なことに、今まであった細長い家は、あとかたもなく消えてしまいました。広い野原に一人ぽつんと立たされていました。
(ふふ、やっぱりきつねにやられたか。五つ子といい、長いろうかといい、おかしなことばっかりだったからな。でも、まあ、いいことをしたか。)
 つぶやきながら、お医者さんは夜道を一人、家へ帰りました。


〔 解 説 〕

 幡豆町は面積のはぼ七割が山です。山の間に入り込んだ沢がたくさんあります。昔はこうした山や沢にかよう道、あるいは山越えをする細い道も数多くありました。
 このような土地の状況から、人間とそこに住む動物たちとの交流も、伝説やむかしばなしとしてあちこちに伝えられてきました。
 ことに、人をだますといわれた狐の話は、山を控えた集落では必ずといっていいほどあります。多くは悪者として登場しますが、「はずの民話」に収めた二編の狐の話は、いずれも心温まるものです。
 狸は、比較的人里近くに住み、今でも見かけますが、狐の話は最近では聞かれなくなりました。それだけに、時代の移り変わりの中で、伝えていきたい話です。




5 じじ塚・ばば塚

 鳥羽の里に、おじいさん長者とおばあさん長者が住んでいました。おじいさん長者は里の東半分を、おばあさん長者は西の半分を耕していました。二人はそれぞれ大勢の村人を使って、野ら仕事や山仕事に精を出していました。
 おじいさん長者は情け深く、村人たちをそれはそれは大切にしました。村人たちも言うことをよくきき、喜んで働きました。
 おばあさん長者は欲が深く、なにかにつけてつらくあたるので、村人たちからあまり好かれていませんでした。
 ある年の田植えのころです。
 おじいさん長者のところでは、今朝も早くから、せっせと田植えをしていました。
「みんなよう働いてくれたで、田植えも今日で片づきそうじゃ。明日は一日お休みにして、田植え祭りをするでのう。」

 これを聞いて、村人たちは一段と精を出して働きました。
 ところが、もう少しで植え柊わるというころになって、お日さまが山にしずみそうになりました。
「お日さま、後ちょっとで終わりますだ。しずむのを待ってくだされ。」
 おじいさん長者はお日さまを見上げて、思わず手を合わせてお願いしました。
 すると、不思議なことに、お日さまは両手を西の山にふんばって、
「ウーン!」
と、しずむのをこらえてくれました。
「ありがとうござんした。おかげで田植えが終わりましただ。」

 次の日、おじいさん長者の家では、大きなおもちをお日さまに供えて、村人たちをよんで酒やごちそうをふるまいました。
さて、おばあさん長者の田んぼは、山を背にしているので、日の当たる時間が短くてなかなか田植えがはかどりません。
 おばあさん長者は、たいそうふきげんに言いました。
「となりの長者は、とっくに田植えがすんだというじゃねえか。おらんとこは、まんだ残っとる。もっとせっせと、働いとくれ。」

村人たちは暗いうちから起こされて、一生けん命働きましたが、今日もまだ、片づきそうにもありません。
「うちのもんは、どうもなまけとるにちがいねえ。そんなら、わしもお日さまにたのんで日を長くしてもらおう。」
 そこで、おばあさん長者は、日が落ちかかってきた時に、大声でさけびました。
「お日さま、そのまんま、しずまんでくだせえ。」

 気のいいお日さまは、またまた、両手を西の山にふんばって、「ウーン。」としずむのをこらえてくれました。
「さあ、何が何でも今日中に田植えをすませとくれ。明日からは、山仕事にかかってもらわにゃならんでのう。」
 おばあさん長者は村人たちを、せきたてるように言いました。
「となりの長者さんは田植え祭りをして、みんなをよんでくれたげな。」
「うちの長者とはえらいちがいだのう。」
 ぶつぶつ言いながら村人たちは田植えを続けました。
 さて、お日さまはいくら待っても、おばあさん長者が何とも言わないので、しびれをきらして聞きました。
「ばあさんや、もう、いいかい。」
「いいや、まだまだ。まんだ田植えがすんどらん。」
 お日さまの顔がみるみる赤くなり、辺りは真っ赤な夕焼けになりました。
「おおい、まだかい。」
「まんだ、まんだ。」
 真っ赤な顔から、あせがだらだら流れ出ました。
「ばあさん、もう、がまんできんぞ。」
 山にふんばったお日さまの両手は、しびれて痛くなり、顔は火のようです。
 とうとうこらえきれずに、″ドーン″と大きな音をたてて、山の向こうへ落ちてしまいました。
 その時、おばあさん長者は、お日さまのものすごい光と熱に当たって、たおれてしまいました。おじいさん長者は、笑い者になったおばあさん長者をかわいそうに思い、塚をつくって祭りました。
 それから数年して、おじいさん長者も、「いつまでも、仲よう仕事にはげんでくだされ。」と、村人に言い残してなくなりました。
 村の人たちはたいそう悲しみ、大きな塚をおばあさん長者の塚のとなりに建てました。二つの塚は、「じじ塚・ばば塚」と言われ、鳥羽の里に仲よく並んでおりました。


〔 解 説 〕

 鳥羽から乙川へ抜ける国道二四七号線の町境から三百メートルほど鳥羽寄りのあたりに二つの塚があったといわれます。じじ塚・ぱば塚と言い伝えられてきましたが、道路の拡幅や圃場整備などで、いずれも姿を消して、今では見ることもできません。
 史実性のうすい、いわゆる伝説ですが、かなり古くから言い伝えられてきたようです。ここでは一つの物語にするためにつくられた部分がたくさんありますが、この辺りで時として見かけるすさまじいほどの夕焼けは、この伝説の真実性を匂わせるものがあります。
 鳥羽の神明社の火祭りは、「福地」と「乾地」に別れて競う祭りですが、あるいは、遠いむかしには鳥羽川を境に二つの地域に分かれていたのかも知れません。




6  きつねと三平

 むかし、八幡の西池のおくから宮迫へぬける近道がありました。昼間はよく利用されていましたが、夜はよほどのことがなければ、この道を通る人はありませんでした。
 なぜかというと、近くに住みついたいたずらぎつねにだまされるからです。
 法事のごちそうや油あげを取られたり、一晩中、山を歩き回ったり、犬のかっこうをする人やら、数えあげたらきりがないほどやられていました。
 ある日、八幡村の三平は父親について宮迫へ行きました。
 その帰り、父親が酒をごちそうになり、ついおそくなってしまったので、この山道を通ることになりました。
 三平は、この山にきつねが出るといううわさを知っていました。
「おっとう、きつねって、おそげえよなあ。」
「ああ、ばかされるかもしれんぞ。ワッハッハ。」
 父親はごきげんで、三平の話など相手にしてくれませんでした。
 やがて、峠の地蔵さんの辺りまで釆た時です。三平は、うば車の音が、ガラガラ、ガラガラ後からついてくるのに気がつきました。
「おっとう。聞こえんか。」「なんも聞こえんじゃねえか。さ、はよう行くぞ。」
 しかし、三平にはやっぱり聞こえます。
「おっとう、うば車がついてくるぞ。」
「まだ、音がするや? 風の音だら。」
(いや、きつねだ。)
 三平は思いました。
(この油菓子をねらっているのかもしれん。)
 三平のふところには、さっき宮迫でもらった油菜子の包みが入っていました。
(この菓子をくれてやったら、化かされないかな。)
 三平は油菓子を一つずつ、一つずつ道に落としていきました。
 しばらくして、ふと気がつくと、うば車の音がしなくなりました。
 三平はふところに手を当てて、ほっとしました。

 時がたち、三平が十二さいになって、名古屋へほう公に出たその秋のことです。

 母親が急病で、三平はほう公先から急いで帰ることになりました。宮迫に着くころは、すっかり暗くなっていましたが、早く帰りたくて、近道を通ることにしました。
 峠の地蔵さんを過ぎて、だいぶ歩きました。
(おかしいな、もう家に着いてもよさそうなものに。まだ山を下りれないぞ。)
 三平は木の枝を折ったり、ちり紙を目印に置いたりして、もう一度、同じ道を歩いてみました。が、ぐるぐる回って同じ所に出てしまいます。

「きつねにだまされた!出口がわからん。」
 因ってしまった三平は、腹を決めて、ここで一夜を明かすことにしました。こしを下ろすとつかれがどっと出て、いつしか、うとうとねむり始めました。
 しばらくすると、木かげから一ぴきのきつねが出てきました。様子をうかがっていたきつねは、三平の顔の周りをくんくんかぎ始めました。そして、何を思ったのか、三平の体に木の葉をかけ始めました。
 夜が明けて、何も知らない三平は、目を覚ましてびっくりしました。

 体の周りに木の葉や草が、まるでふとんのようにいっぱいかけられていたのです。
 夜つゆがおりていたのですが、木の葉のおかげでぬれずにすみました。
(助かった。)

 辺りを見回して立ち上がると、ガサガサッと草むらからとび去ったものがいました。
(きつねかな。)
  三平は体についた木の葉をはらいながら
「ありがとうよ。」
と、心をこめて言いました。
 三平は急いで山を下りて、家へ帰りました。一晩山で過ごしたことは、だれにも話しませんでした。

 その後、三平は、きつねのいたずらに手を焼いた村人たちが、きつねがりをしたという話をほう公先で聞きました。しかし、きつねはついにつかまらなかったということです。
 三平は心の中で、一夜明かした山のことをなつかしく思い出しました。


〔 解 説 〕

 三方を山に囲まれた幡豆町は、この地方でも独特の地形といえます。このような地形が、歴史や生活と深いかかわりをもってきました。幡豆へ入るのも出るのも、山越えをするか、船を使うよりほかありませんでした。
 ことに、鳥羽の石塚の道、八幡の宮迫への道、東幡豆の風越の道などは、大変重要でした。交通手段が徒歩、自転車、そして自動車へと発達するにつれて、道も造り変えられ、昭和二十年以後、車に適さな
い道路はしだいに姿を消していきました。
 しかし、道はなくなっても、山越えにまつわるいろいろな話が、時代を越えて言い伝えられてきました。おいはぎやへびの話、そして一番多いのがこの三平のように、きつねとの出会いの話です。




7  馬頭観音さま

 今でいう西幡豆の三番組の辺りを、むかしは西戸城(にしとじょう)村と言い、そこは古くから栄えていたところです。
 江戸時代の中ごろになると、村人は海をうめたりあれ地を耕して、西へ西へと土地を広げていきました。
 家も一けん建ち、また一けん建ちして、やがて一つの村ほどに家が増えました。新しい土地なので、みんなは「新地」と、呼んでいました。
 ここに住んでいる久兵衛は、大変信心深く、毎朝氏神さまにお参りして、村が栄えるようにお願いしていました。
 しかし、その氏神さまといえば八幡村の八幡さまで、新地からはずいぶんはなれていました。年をとった久兵衛には、遠い所まで歩くことは大変でした。
「近くでお参りできたらな。」
「おらがとこにも、お宮さんやお寺を建てたらどうだ。」
「いいことだが、お祭りする仏さまがなくっちゃ、話にならんわ。」
 久兵衛は、仲間たちとよくこんな話をしていました。
ところで、八幡さまの境内(けいだい)には、いくつもほこらがあって、そのうちの一つに馬頭観音さまが祭られていました。久兵衛はことのはか、この観音さまが好きでした。
(この観音さまは、なんとりりしいお姿だ。この観音さまならどんな難ぎも追いはらってもらえよう。そのお力で新地を守ってくださればなあ。)
 こう思いながら、さい銭を投げては拝んでいました。

 ある夜、その観音さまが久兵衛の夢の中に現れて、こうおつげになりました。
「われは、今から南の海岸へ行くぞ。心してわれをむかえるがいい。」
久兵衛は、はっとしてとび起きました。しかし辺りは何事もなく静かでした。
 さて、そのあくる朝のことです。
 久兵衛がいつものように八幡さまに出かけると、何事かがあったのか村人たちが、境内で大さわぎをしています。

「おら、ゆんべ観音さまの夢を見たぞ。この八幡村は、もうわしがいなくても、立派にやっていける。わしはこれから海岸に移ることにする。そう言われただ。」
「おらも夢を見た。それで、夜明けを待ってとんで来たら、このとおり、ほこらは空っぽだ。観音さまはどこだ?」
 こんな話を耳にした久兵衛は、みんなが同じ夢を見ていることにびっくりして、
(観音さまは、本当におらが新地の海岸の方に来られたのかな。)
と、転げるように引き返しました。

 それから、新地の仲間たちは大さわぎです。家の中から、道ばた、海岸とみんなで一日中、探し回りました。
 海の上に夕日が赤くなるころ、一人の若者が息せききってかけこんで来ました。
「おおい、観音さまが、見つかったぞー。」
 久兵衛の耕しかけた畑のすみに、ちょこんとすわっておられたということです。
 新地の人々は、さっそくそろってむかえに行きました。
 やがて新地にりっぱなお堂が建てられ、馬頭観音さまは、ていねいにお祭りされました。
 さて、こうしてお寺ができて、みんなでお参りしていると、「新地」と言う呼び方でなく、ちゃんとした村の名前がほしくなりました。
「観音さまからいただける名前はないもんか。」
そこで、この観音さまが、渥美(あつみ)郡にある小松原(こまつばら)山の観音さまと同じ木でつくられたという言い伝えから、「松原」と名づけられました。


〔 解 説 〕

 西幡豆の一番組、通称松原に、元三(がんざい)大師作といわれる馬頭観音をお祭りした観音教会があります。
 馬頭観音は、六観音の一つで、もともとは、旅や馬の守護神であるといわれています。
 このお話は、その御縁起によるものですが、松原地区は、正式には西戸城村の一都で、江戸時代末期まで、「松原村」の名は郷帳などには見当たりません。しかし、一般には松原を一つの村として考えて
いたようです。
 おそらく、江戸時代の初めごろ、このお話の寛文年間前後に松原地区は次第に発展していったものと思われます。町誌にも宝永年間(一七〇四〜一七一一)に今の鳥羽駅の東南が開発されたことが記されています。




8 穴観音さま

 江戸時代の中ごろのことです。西戸城(にしとじょう)村に久助いう人のいい百姓が住んでいました。
 その日も、一日中畑仕事をして、やがて、日暮れの寺のかねが鳴るのを聞いて、やっとこしを上げました。
「やれやれ、今日はたんと仕事ができたわい。そろそろ帰るとするか。」
 いつも帰り道は、一本松の下を通りました。その松の木の下には、こんもりと木のしげった塚がありました。
 塚の近くに来た時、久助は、塚からすずめが出たり入ったりしているのを見て、不思議に思いました。
(ここは、むかしのえらい人の墓だと聞いていたが、すずめが入るとはなあ。)
 久助が近づいてよく見ると、丸い穴がぽこんと開いていました。穴から中をのぞいて、久助はびっくりしました。

 中は真っ暗なはずなのに、おくの方からかすかな光がさして、がらんとした中の様子がぼんやり見えます。
「不思議なこともあるもんだ。」
 久助は、くわのえで穴をこじてみました。石が動いて一つはずれました。もう一つ、もう一つと石をはずして、とうとう体が入るはどの穴になりました。
 おそるおそる久助が中へ入って目をこらすと、そこには、高さ一尺ほどの小さな観音さまが立っておられました。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……。」

 久助は、その場にぺたりとすわりこんで両手を合わせました。
 あくる朝早く、庄屋さんの所へとんで行きました。
庄屋さんは、うで組みをしながら、久助の話を聞いていました。

「うんうん、なるほど、そう言えばあの塚から海へ下る道を民部坂(みんぶざか)と言ってな、むかし、小笠原民部さまがよく通られたそうだ。」
 久助は首をかしげながら聞いていました。

「それで、あの観音さまは?」
「そうそう、その方はな、たいそう信心深くて、いつも仏像を持っておられたそうだ。
 もしかして、それが塚の中の観音さまかもしれんなあ。」
 それから、庄屋さんは村人を集めて相談しました。すぐに話はまとまり、観音さまを塚から出して、みんなで祭ることになりました。
 その日は観音さまをおむかえするために、村人たちはきれいな水で手足を清め、近くの寺から坊さんにも来てもらいました。
静かに穴の中に入ると、読経が始まりました。
 身のたけ一尺はどの木の覿音さまは、ひどくいたんで、元の姿が分からないほどでした。
「ちょっと、待ちなされ。この光は……。」
 読経がすんで、観音さまを外へ運ぼうとした時です。坊さんがおどろいたように言いました。
 坊さんに言われてよく見ると、観音さまの額から、かすかな白い光が出ています。
「おお!」
 みんなは、息をころしてじっと見つめ、手を合わせて拝みました。
「観音さまの足元をよおく、ごらんなされ。」
 観音さまをそっとわきへ運ぶと、坊さんの言葉どおり、足元にあった土が少し高くもり上がっています。
 庄屋さんが、土を少しずつ、ていねいに取りのぞいていきますと、
「おや! これは?」
 土の中から、ぼろぼろにくずれた木のはこが出てきました。はこを開けると、大むかしの鏡や刀が入っていました。
「観音さまのお宝じゃ。いっしょにお祭りしてあげなされ。」
「ほんに、ありがたや、ありがたや。」

 こうして、塚穴のとなりにお堂が建てられ、観音さまはご本尊として、大切にお祭りされました。


〔 解 説 〕

 西幡豆の欠の海岸通路から百メートルほど北へ上ったところに観音堂があり、その東側の小山が幡豆町指定の史跡、中野郷古墳です。
 観音堂の御縁起に、古墳は明暦年間(一六五五〜一六五八)に発見され、木製の仏像、古鏡、太刀などが出土したと記されています。
 仏像は腐蝕がひどく、かろうじて姿をとどめているほどです。
 また、海岸通路への坂道は、小笠原民部丞左衡門が行き来した道として、民部坂の名が残り、観音堂に隣接するあたりは、小笠原氏の居城、欠(かけ)城のあった場所でもあります。




9  かめいわ

 ずいぶんむかしのことです。日本武尊(やまとたけるのみこと)が天皇のいいつけで、東の国々をせいばつに行きました。
 この時、建稲種命(たけいなだねのみこと)も大勢の兵を連れてお供をしました。
 その帰り道、日本武尊は陸地を通って、とちゅうの国々の様子を見ながら帰りました。建稲種命は、船で港の様子を見て帰ることになりました。
 船は大きな帆に風をいっぱい受け、遠くに陸地や島をながめながら、西へ西へと進みました。とても気持ちよい船旅でした。

 そして、駿河(するが)のおきまでやって来た時です。
「おお、なんと美しい鳥だ。見たこともないが、だれかあの鳥の名を知っておるか。」
命(みこと)は、供の者にたずねましたが、だれ一人知っている者はいません。
 白い大きな鳥は、海にゆらゆらういて、時々広げる羽は、にじのようにかがやいていました。

 ヒユルル…、ヒユルル。
 鳴く声も、命は大変気に入りました。
(あの鳥をとらえて、日本武尊にさし上げたら、さぞお喜びになるだろうな。)

そう思った命は、どうしても手に入れたくなり、供の者につかまえるように言いました。
 二そうの船で、あちらへこちらへと追いかけました。大きな船は思うようには動かず、身の軽い鳥は、ふわりふわりと船の問をすりぬけていきます。ようやく追いつめたかと思うと、美しい羽をばっと広げて飛び上がります。

 しかし、あきらめませんでした。供の者たちは、命の望みをかなえてあげようと、時のたつのも忘れて鳥を追い続けました。そのために、おきの方から黒い雲が近づいて来るのに、少しも気がつきませんでした。
 黒い雲はたちまち空いっぱいに広がりました。風が一ふき、ヒユーと起こったかと思うと、海が山のように盛り上がり、船が大きくかたむきました。
「帆を下げろ! かじをしっかり持て!」
 命の声も聞こえないはど、風と雨と波があれくるっていました。
 それから、どのくらいの時がたったのでしょうか。
 空も明るくなり、再び静かな海がもどってきました。
 けれども、命たちの船も、鳥の姿もどこにも見当たりませんでした。

 その後、いく日もいく日も過ぎました。
 幡豆の欠(かけ)のはまは、遠浅で貝がたくさんとれました。猟師は貝とりや、小舟でつりに出たり、おきであみを投げて漁をしたりしていました。
 辺りのながめはすばらしく、海岸にはところどころ岩が顔を出して、寄せる波に洗われていました。
 その岩の中に、一つだけ海がめの背中のような形をしたものがありました。漁師仲間は、「かめいわ」と呼んで、めずらしがっていました。
 そのかめいわに、ある朝、みなれない白いものがのっていました。
「おい、あれはなんだ!」
 さわぎながら漁師たちが近づいてみると、なんと、それは遺がいでした。しかも、一目で高貴な身分の方と分かりました。
「そう言えば、えらい人が駿河の海でそうなんしたとか言っていたなあ。」
「おれも聞いとる。なんとかの命らしいな。」
「もし、そのお方なら、こりゃあ、大変なことだぜ。」
 欠の村はこれは一大事と、大さわぎになりました。
 やがて、村人によって、海岸近くに社が建てられ、その遺がいは建稲種命として祭られました。そして、いわれのあるかめいわも、周りにさくを作り、しめなわをはって、社の前に大切に残されました。


〔 解 説 〕

 昭和の初めごろ、愛知県の十名所の一つに数えられた西幡豆の四番組(旧欠村)の海岸近くに幡頭神社があります。「かめいわ」はこの社の正面、境内の中央に昔の位置のまま保存されています。
 このお話は、建稲種命の伝説にもとづくものですが、宮崎、・衣浦などにも同じような伝説があります。建稲種命は、日本武専のお妃の兄で、日本武尊の東征にしたがっていきますが御幡頭であったといわれています。




10  だき地蔵さん

 門内(かいと)村の藤作じいさんは、ここのところ、うかぬ顔をしています。
実をいうと、きんちゃくをなくしたのですが、いつもばあさんに、「おまえはだらしないぞ。」とどなっていた手前、
言うに言われず、ないしょで探していました。
 きんちゃくの中へ銭のほかに大事な書きつけを入れておいたので、なおさら因っていました。
たなの上や、机の引き出し、土間のすみなど、みんな探しましたが見つかりません。
とうとう、ばあさんに気づかれてしまいました。「おじいさん、ごそごそ、何しとるだえ。」
「いや、なあに。おれのきんちゃく、知らねえか。ちょっと探しとるだが…。」
 とぼけた顔で答えましたが、もう五日も探し続けて、本当は泣きたいほどでした。
「弘法山のだき地蔵さんに聞いたらどうかえ。となり村の清右衛門さも落とした銭が見つかったし、おきくさの孫の病気も治ったそうだ。だき地蔵さんはよう当たるそうだで…。」
 ばあさんがすすめると、
「そんなもん、あてになるか。それより、おまえも、はよ探すの手伝わんかい。」
 藤作じいさんはやつ当たりして、ぷいと出て行きました。

 だき地蔵さんは弘法山の小さなお堂にお祭りしてあります。村人は、苦しみや困りごとがあると、さっそくお参りに行きます。一心にお参りしたずねると、心に思ったとおりならば、だき地蔵さんは軽く上がり、そうでないと重くて持ち上がりません。

 藤作じいさんは、ばあさんには、「あてになるか。」と言ったものの、やはりだき地蔵さんが気になって、弘法山へやって来ました。
辺りを見回して、そっとお堂に入ると、さっそくお地蔵さんにたずねました。
「おらのきんちゃく探してくだせえ。そんなら今からお聞きしますだ。家の中にあるだったら、軽く上ってくだされ。」
 じいさんがお地蔵さんをだくと、ひょいと軽く上がりました。
(なるほど、家の中にあるのか。)
 それから、高い所か低い所か、東か西かと次々にたずねました。

「やっぱり、人の話などあてになるもんか。」
夕飯の時、ぶつぶつ言いながら、じいさんが茶ぶ台の前にすわりました。ばあさんは何のことかさっぱりわかりません。
「あれは、うそつき地蔵だ。おれが聞きに行ったら、きんちゃくは家の中にあるっていうだ。でも、見つからねえ。」

(おじいさんは、やっぱり、だき地蔵さんに聞いてござった。)
 ばあさんはおかしくて、ふき出しそうなのをがまんして言いました。
だき地蔵さんの言われたとおり、もう一回、心を落ち着けて、すみからすみまで探してみなされ。」
 じいさんは、はっと気がついたように、いきなり机をどかして、
たんすとかべのせまいすき間をのぞきこみました。
「あっ! あった、あった。」
 その声の大きかったこと。じいさんはうれしくて、ばあさんはおかしくて、二人そろって大笑いをしました。
 次の日、二人でだき地蔵さんにお礼参りに出かけました。ばあさんは、ゆうべぬっておいたよだれかけを、お地蔵さんにかけてあげました。


〔 解 説 〕

 西幡豆の見影山のふもとに弘法堂があります。通称弘法さんと言って、毎年旧暦三月二十一日の命日にはいろいろな店がくり出して大そうにぎわいます。
 この境内の一隅に小さなが社あり、何休もの石の地蔵さんが祭られています。だき地蔵さんはその中の一つで、泳い年月、多くの人の手に抱かれ続けてきたせいか、一目でそれとわかるほど黒びかりしています。
 いぼ地蔵さんと同じように、庶民の現世利益を願う地蔵信仰をここにも見ることができます。今でも、近くのお年寄りがお参りに訪れては顔を合わせると、お年寄り同士いろいろと話に花がさくようです。本当に庶民の中にとけ込んだお地蔵さまといえます。




11  岩神さん

むかし、幡豆の八幡村の百姓たちが、西尾藩の佐野新右衛門(さのしんえもん)といううでじまんのさむらいめところへやって来ました。
「佐野さま、どうか、わしらの力になってくだされ。」
「お願いしますだ。うわばみを退治してくだされ。」
 あまり熱心にたのむので、初めはとりあわなかった新右衛門も、そのわけを聞くことにしました。

 八幡の山の松林に大きな岩がいくつもあって、そこの岩穴に一ぴきのへびが住むようになりました。不思議と、このへびが住みついてから、まつたけがよく生えました。
 まつたけはけっこういい金になり、村人は、「神さまのおつかいだ。」と、このへびのことをうわさし合いました。
「うわばみさん、うわばみさん。」
と、おそれながらも、村の人たちは大切にうやまいました。

 ところが、そのうわばみが大きくなって、しばしば村の方へ、姿を現すようになりました。田畑の作物はおしつぶされるし、にわとりは飲まれるし、時には、子どもまでおそわれるようになり、百姓たちは困り果てました。

「いくら神さまのおつかいかもしれんが、これでは、おらたちが食っていけん。強いおさむらいさんに退治してもらわめえ。」
 こう話がまとまりました。

「ハッハ、うわばみさんだと? このわしにこわいもんなどないわ。ぜひとも、そいつにお目にかかりたいもんだ。」
新右衛門は剣のうでには自信があったので、これはおもしろいと引き受けました。
 さっそく、百姓たちはあれはてた野菜畑を見せだがら、岩穴の方へ案内しました。
 ほどなく、道をさえぎるように横たわっている大木に出くわしました。
 さすがの新右衛門もぎょっとしました。大木だと思ったのは、実はうわばみのどう体だったのです。

(な、なんと、ばかでかい! これほどとは思わなんだ。)
 新右衛門はいっしゅんたじろぎましたが、それでも、うわばみとにらみ合いました。
 うわばみはするどいまなこを向け、時々赤い舌をちらちらさせて、今にもおそいかかってきそうな様子です。じつとにらみ合ったまま、しばらく時が過ぎました。
(へたをするとやられてしまうかもしれんぞ。ようし、だましうちだ。)

 そう思った新右衛門は、刀もぬかず、やさしい顔をして、「まいった。」という拝むような手つきで、静かにうわばみに近づいて行きました。

 うわばみも安心したのか、むかってくる気配はありませんでした。
 と、次のしゅん間、新右衛門はす早く刀をぬいたかと思うと、とび上がりざまに大きくふり上げ、ぐさりとうわばみのどうの真ん中へ切りこみました。
 はげしい地ひびき。
 百姓たちは、何がなんだかわけもわからず、ただ見とれていましたが、その次に、もっとおどろくことが起こりました。
 切られたうわばみが口を開け、ふり向きざまに、新右衛門をひと飲みにしようとしています。しっぽを宙にふり上げ、今にもたたきつけようとすごい勢いです。
 新右衛門は必死で一ふり、二ふり切りつけました。勢いよくふりきったしゅん間、うわばみの頭は東の山へ、しつぽは西の山へと、はるかかなたに飛んでいきました。
 東に飛んだうわばみの頭は、のたうちまわり、はいずりまわって岩穴まで来ると、うらめしそうに、辺りをにらみつけて、やがて動かなくなりました。
 村人は新右衛門に礼を言い、その強さをたたえました。けれども、新右衛門はにこりともしませんでした。
「せっしゃはひきょうな手口でうわばみをやっつけた。さむらいとしてはずかしい。あなた方で供養してやってくだされ。たのみますぞ。」
 村に現れた時の新右衛門とはまるでちがい、いばることもなく静かに立ち去りました。
 その後、村の人たちは、うわばみの頭があった位置に穴をほり、岩を積み上げて、手厚くほうむりました。そして、その場所にほこらを建て「うわばみさん」と言って祭りましたが、いつしか「岩神さん」と呼ばれるようになりました。


〔 解 説 〕

 岩神さんは、八幡の東側の山に祭られています。うわばみの伝説がこんな所にと思うような人里に近い場所ですが、現地に立つとなるほどとうなずけます。雑木の間に突き出している大岩、地面からせり上がっている平たい岩など、その一角は岩ばかりです。大きな蛇が岩かげにとぐろを巻いていても不思議ではないといった雰囲気です。
 岩場の真ん中に陶製の小さな祠があって、そこに岩神さんが祭られています。以前は例祭も行われ太鼓も打ち鳴らされたと聞いています。
 また、この辺りは松の木が生い茂り、昔は松茸も豊富に取れたところです。




12   帆下げの薬師

 ずっとむかし、寺部の城山のふもとに、立派なお寺がありました。
 人々が、まだ、わらぶきの小屋に住んでいたころなので、屋根にかわらを使ったそのお寺は、いかにもどっかりと、海に向かって建っていました。
 お寺に祭られているお薬師さまは、人々の苦しみや悲しみをお救いくださるということで、それはそれは大変な人気でした。
 近くの人も、遠くの人もお参りに来ましたが、おきを通る船も、お寺が見えると、船を止め、帆を下げてお参りしました。それで、人々は「帆下げの薬師と呼んでいました。
 ある年の冬、一そうの大きな船がおきを通りかかりました。ところが、その船は、お薬師さまの前まで来ても、帆を下げずにどんどん通り過ぎて行きます。
 すると、そのとき、空がにわかに暗くなりました。風はうなりをたてて、大波を巻き起こし、海は大あれになってきました。船はたちまち帆柱を折られ、岸へ打ち寄せられて、大きな岩の上に乗り上げてしまいました。

 さて、それから大変なことが起こりました。
 船から降りてきた十人ばかりの男たちが、お薬師さまの方へ走って来たかと思うと、お堂に火を放ったのです。火は風にあおられて、みるみるお堂を包んでしまいました。
「お薬師さまが火事だ!」
「みんなを呼べ!」
「おけを持って来い!」
「火を消せ!」
 火事に気がついて、村の中はかけつける人、走り回る人、さけぶ人で大さわぎです。
その人々の中で、庄屋の甚兵衛さんが、ひときわ大きな声で言いました。
「お薬師さまを外へ出せ。おおい、お薬師さまをお助けせい!」
「よしきた。庄屋さ、おれが行く。」
「おれもだ。」

 返事をしたのは、権太とその連れの常三です。権太は、病気の母親と二人暮らしで、毎日、お薬師さまにお参りしている若者でした。
 頭から水をかぶると、二人はけむりをくぐって、お堂の中へ飛びこんでいきました。

 二人の後を追うように、また水がかけられます。
 お年寄りは後ろの方で、手を合わせて念仏を唱えました。
「おお、出て来たぞ。権太が出て来たぞ!」
 権太と常三は、自分の体ほどもあるお薬師さまをかかえて、はい出して来ました。
「ようやった! ようやったぞ!」
 お薬師さまは、頭のあたりが少しこげただけで、無事に救い出されました。
村人がはっとして、ふと気づくと、見なれない坊さんが、人々の後ろに立っていました。
「みなのしゅう、この薬師如来は助けてもらってお喜びですぞ。お礼として、この先どんな難ぎも救ってくださることだろう。大切になされ。」
 坊さんは、そう言い残して、いずこへともなく立ち去りました。
 顔はかさにかくれて見えませんでしたが、白いひげを生やし、衣が少しこげてうすよごれていたので、村人たちは、いっそう不思議に思いました。
「あれは、お薬師さまの化身かもしれんな。」
 庄屋さんは、独り言のようにつぶやきました。
 その後、村人は、城山の裏の小高い所にほこらを建てて、お薬師さまをお祭りしました。権太の母親の病気も、一日一日と良くなっていったということです。
 お薬師さまには、前にもまして、大勢の人がお参りにおとずれましたが、小さなほこらは海からは見えないので、「帆下げの薬師」の名は、いつしか忘れられていきました。
 さて、はじめに海から上がって、お薬師さまのお堂に火をかけた男たちは、何者だったのでしょう。海ぞくであろうとも、敵国の者であろうともうわさされましたが、本当のことはわからなかったということです。


〔 解 説 〕

 このお話は、太山寺薬師如来の御縁起によるものですが、最近、かつてあったといわれる帆下げの薬師を立証するようなものが発見されました。寺部の城山の南側の麓で古代寺院の軒丸瓦と大量の平瓦がでてきました。八世紀ごろのものです。
 また、多くの古書に、稲春川(ねこがわ 今の小野ケ谷川)の東に杭里城(こうり城、またはくいさと城ともいわれた)のあったことが記されています。このようなことから、帆下げの薬師が実在したことがうかがえます。
 古代には、幡豆の地は、海上交通の面で大変重要な位置を占めていたことが考えられるので、史実に裏付けられたお話ということがいっそう浮き彫りにされます。




13  人狩り

「いよいよいくさが始まるんかのう。」
「元康(もとやす)さまは、吉良の東城をせめられるそうな。うちの殿さまはどうなさることか。」
「全くだなあ。おれたち百姓が、田植えどきのやかましい時にのう。」
 今から四百五十年ほど前、永禄のころのことです。そのころは、日本のあちこちで武将どうしが争いを起こしていた戦国時代です。
徳川家康も、まだ松平元康と名乗っていました。その元康が吉良のお城をせめるといううわさが伝わると、寺部城の近くの村では、百姓たちは顔を合わせると、いくさの心配ごとを話し合っていました。幡豆の殿さま、小笠原氏は、元康の敵、今川氏に味方していたからです。
 いくさになれば、荷物を運んだり、陣地を築く大勢の人手がいるので、百姓たちは人夫にかり出されます。女の人は、一番の働き手を取られてしまうので、「人狩り」と言って大変おそれていました。
 この村の百姓吾平のにょうぼうおさだは、大そう勝ち気で陽気なばあさんでしたが、むすこの嘉助が足軽になってお城にほう公してからは、いくさのことがだれよりも心配でした。この上、吾平がかり出されたら、もう百姓はできなくなります。
「そんなことになったら、神も仏もねえ。いや、そんなことさせるもんか。」
 おさだは、腹の中でいつもそうさけんでいました。
 梅雨どきにめずらしく晴れたある朝のこと、夜明けからそうぞうしい人の声と、かけ回る足音で、村に何か大変なことが起こっている様子でした。
「ちゃっと、ちゃっと…。」
 おさだは、そう言いながら、吾平を「おさん」の部屋におしこめました。おどろいたのは吾平です。
「おさん」といえば、女がお産をするときに使う所で、男は決して入ってはならないと言い伝えられていたからです。

「おまえさん、どんなことがあっても、出てくるじゃねえぞ。いいかえ。」
 おさだは、かすれた声で念をおすと、「おさん」の戸をぴしゃりと閉めました。
 吾平にも、やっとそのわけがわかって、「おさん」の中にじっとしていると、
思ったとおり、表戸をガタガタさせて、二人のさむらいが入って来ました。
「へえ、なにごとでござりましょう。」
 おさだは、ねぼけたようなふりで、さむらいを見ました。

「吾平はおるか。」
「あの人は、朝はようから遠くの山畑へ出かけましてのう。」
「いくさが始まるのじゃ。人手がいるのじゃ。吾平を連れてこい。」
「うちの人は、おりませんがのう。」

 おさだの声は、不思議と落ち着いていました。

 さむらいたちは、つかつかと上がると、えん坂をぎしぎし鳴らしながら、家の中を探し回りましたが、吾平は見当たりません。そうして、最後に「おさん」の前に立つと、今にも開けようと、戸に手をかけました。
「なにしやあがるだ。そこは、おさんじゃ。男が入る所じゃあねえ。」
 ねばけたおさだとは別人のように、びっくりするような大声でした。
 さむらいたちは、ぎょっとして手を引っこめました。
「ここはな、女の大事な所じゃ。男を入れたら申しわけがたたんのじゃ。」
 さむらいたちは、しばらくおさだとにらみ合っていましたが、顔を見合わせると、そのまま立ち去りました。
 その日は、一日中人狩りが行われ、人々があわただしく行き来していました。しかし、おさだのところへは、二度と姿を現しませんでした。吾平は、こうして難をのがれました。

 走り付けのいくさが始まったのは、それから数日後のことでした。


〔 解 説 〕

 戦国時代の永正から天正年間(一五〇四〜一五九一)にかけて、幡豆の地は小笠原氏の一族が支配していました。永禄年間の初めごろ(一五六〇年ごろ)徳川家康は岡崎から安城、西尾、吉良へと次第に東へ攻めてきました。そのころ、西幡豆の欠城に小笠原安元が、寺都城には小笠原広重がともに今川氏に味方して城を守り、迎え討つ準備をしていました。そのための強引な人集めが「人狩り」という言葉で言い伝えられたと思われます。その後、走り付けの戦いとなり、勝敗のないまま、やがて小笠席氏は家康の配下となって活躍します。
 現在、欠城の跡には、民家が立ち並んでいますが、寺部城の跡は、今もその姿をとどめています。




14  へひり浜

 そのむかし、小笠原の殿さまが寺部城におられたころの話です。
「おら、琴姫さまに、またからかわれたわい。」
「ほんに、やんちゃ姫にゃあ、困ったもんよ。」
「それでも、あのえ顔はにくめんでのう。」
 話題になっているのは、家老のむすめで、名を琴といいました。
 琴はすずをころがすようなすんだ声で、ゆりの花を思わせるほど愛らしい顔だちでした。申しぶんのないむすめですが、男まさりの気しょうで、家来も村人も姫にはほとほと手を焼いていました。
 花や茶の修行などとんでもないことで、家の中でじっとしているのが何よりも苦手、毎日、供の者を連れて、戸外の景色を楽しんでいました。

 琴は、とくに海をながめるのが好きで、その日も、兵八郎ら、供の者を従えて、お気に入りの寺部の海辺に出かけました。空は晴れ、やわらかな春の日ざしがふりそそぎ、琵琶嶋の沖の嶋が美しい島影を海面に映しています。絵のようなすばらしい景色に、琴はごきげんです。
「ほらほら、兵八郎、見やれ、遠くにかすむ渥美の美しいこと。」
「いかにも姫さま。だが、そこは岩の上ですぞ。お気をつけくだされ。」

兵八郎は、はらはらしながら、気の休まる時がありません。
 琴は砂浜を歩き回ったあげくつかれたのか、海につき出た赤い大きな岩にこしを下ろして、一休み、時のたつのも忘れていました。やがて、日もかたむきはじめ、供の者にうながされて、しぶしぶひきあげることになりました。
「わらわは、もっと遊んでいたいのじゃ。」
 琴は、少しすねながら、勢いよくこしをあげたそのとたん、おしりのあたりから、プーッと大きな音がしました。いっしゅんハッとして、あわてて手でおさえたところ、プップップッと、今度はかわいい音が続けざまです。

さすがの姫もはずかしさのあまり、みるみる真っ赤になり、やがて青ざめていきました。
 兵八郎もとつ然のことで、何と言っておなぐさめしてよいやら言葉もありません。
 むかしは、女の人が、しかも高貴な姫さまが人前でおならをすることは、この上なく礼ぎ知らずで、世間の笑い者になることはわかっていました。

 ひと時、気まずい空気が流れました。
 何を思ったのか、琴は、兵八郎はじめ、まわりにいた供の者、一人一人に、大声でたずねはじめました。
「これ、そちは、さきほど、何かの音を聞いたと申すか。」
「いいえ、何の音も聞こえませんでした。」
 初めは何のことかわけがわからなかった供の者たちも、次々にこう答えました。
 こうして、琴は全部の人にたずね終えると、すました顔で家路には着きました。
 その後、何事も起こらずに月日は流れました。
 ただ、そのことがあってから、あんなにお気に入りの浜辺に、琴は一度も出かけることはありませんでした。

 そして、もれるはずのないこの話が、どこからもれたのか、
口から口へと伝わって人々はこの浜辺を、「へひり浜」と言いました。


〔 解 説 〕
 寺部は、漁業海運など港を中心に古くから発展していた所です。
中世の室町時代中期ごろには、小笠原氏が寺都城に居を構え、永禄年間には家康の配下となりましたが、天正のころ(一五九〇)まで幡豆の地を支配していました。このお話は、そのころのことでしょう。
 幡豆中学校の跡地(現在寺部グランド)の前にある大きな赤味をおびた岩がその場所とされています。春うららかな日に、ここに立つと、渥美、知多半島の山並みが遠くにかすみ、宮崎の岬、大小の島々、そして、梶島、沖島、前島が近くに見え、静かに寄せては岩を洗うさざ波など、まさに一幅の絵の中にいるようです。このお話が言い伝えられてきたのもこの佳景のためかも知れません。




15  しばられた雷どん 

 小野ヶ谷(おのがや)の龍蔵院(りゅうぞういん)は、大きな松やしいの木のおいしげった山のふもとにありました。
 お堂の中に観音さまが祭られており、朝夕には、おしょうさんのお経を読む声がひびきます。
 木々の中に、ひときわ目だって幹の太い松があり、お堂の屋根を守るように枝を広げていました。
 龍蔵院の近くに、かん太の家がありました。かん太は、ばあさまに連れられて、よく観音さまへ出かけました。広い境内は、子どものかっこうの遊び場だったからです。
 ある夏のこと、その日は朝から大変むし暑い日でした。
 かん太と弟のせん太は連れだって、境内でせみとりをしていました。あちらでも、こちらでも、たくさんのせみが体をゆすって鳴いているのに、いざつかまえようとすると、さっとにげてしまいます。もう二人とも夢中でした。
 そのうち、にわかに空が暗くなりました。大つぶな雨が一つ、二つ落ちたかと思うと、いなびかりが走り、たちまち天の底がぬけたようなどしゃ降りになりました。
 かん太とせん太は急いでお堂の中へかけこみました。その日の夕立は特に激しく、ゴロゴロ、バリバリッ。腹にまでひびいてくるような音でした。
「にいちゃん、おそげえ。」
「おらもおそげえ。へそかくせよ。雷にとられるぞ。」
 かん太におどされて、せん太はあわててはだけた着物を直しました。弟にしがみつかれたかん太も、泣きたいのをがまんして、じつと夕立の通り過ぎるのを待ちました。
 さて、雲の上では、雷どんがたいこを打ちならして大あばれ。下界のみんながこわがるものだから、ゆかいでたまりません。

「どうだ、おったまげたか。ワッハッハ。」
 調子にのって、ピカピカ、ドンドンやっていました。ところが、あんまりいい気になりすぎて、つい雲のすき間から足をふみはずしてしまいました。
 バリバリッ、ドッシーン。落ちたところが龍蔵院の大松です。
 かん太とせん太はびっくり。雷どんはもっとびっくり。
「しまった。しくじった。」
あわてて空にはい上がろうとしましたが、なぜか身動きができません。気がつくと、いつの間にか、体が松の根元にしばりつけられていました。
「雷こぞうよ。お寺の松に落ちるとは何事ぞ。」
観音さまの声がしました。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
「いいや、ばつじゃ。村人をさんざんこわがらせて…。そのままでいるがよい。」
雷どんは因ってしまい、青ざめてなみだをぽろぽろこぼして許しをこいました。
「こんなところを人間に見られたら、はずかしいよ。観音さんの言うことは何でもきくから、このなわをほどいておくれよう。」

「ならば、この先、二度と小野ケ谷村には落ちないと約そくできるか。」
「わかった。するよ。約そくするよ。」
 そのとたん、雷どんをしばっていたなわがプツッと切れました。
 富どんは頭をぺこんと下げると、急いで空に上って行きました。

 だれも見ていないはずのこの様子を、実は、かん太とせん太が息をころして、お堂のすき聞からのぞいていたのです。二人はこわさも忘れ、雷の泣きべそ顔に、思わず顔を見合わせ、ふき出してしまいました。
「それから、この村には雷さんは落ちんようになったのさ。」
 かん太とせん太は、後々まで、得意そうに話しました。


〔 解 説 〕

 これは、小野ケ谷にある龍蔵院でのお話です。龍蔵院は、今から千年以上も前に建てられた寺で、御本専の聖観世音菩薩もはぽ同時代のものといわれています。この仏像は、幡豆町では最も古いもので、町の文化財に指定されています。
 むかしは、龍蔵院の境内周辺は、松、椎の木、槙などの大木におおわれ、その一かくは静かな森になっていました。
 古老の言い伝えによると、境内にあったひとかかえほどの松の老木が、落雷によって二つに裂けたことがあったということです。それ以後、この小野ケ谷に落雷がなかったため、だれ言うともなくこのお話が言い伝えられてきました。




16  山伏と大般若経

小野ケ谷村は、山あいの静かな村で、ここに入る道はたった一つしかありませんでした。よそ者が出入りすれば、すぐに分かりましたが、そんなことはめったにないことでした。
 ところが、のんびりした平和な村に、ある年の秋、大さわぎするようなことが起こりました。
「やれやれ、帰るとすべえか。」
 いねのかり入れで一日中働いて、くたくたになった茂七(もひち)がこしを上げた時です。
 むこうから、落人らしい山伏姿の五、六人が、どやどやっとやって来て、茂七にたずねました。

「もうし、龍蔵院はどちらかな。教えて下され。」
 たまげた茂七は、おどおどしながら、その方向を指差しました。
その人たちは、礼もそこそこに足早に立ち去りました。
 ぽかんと口を開けたままの茂七は、しばらく後ろ姿を見送っていましたが、
これは大変だと、急いで帰り、村の人たちにふれ回りました。
「おらあ、びっくりしたがや。今でも足がふるえとるぞ。」
「どこのお人かのう。」
「わからん。よっぽどわけがあるだな。なんせ、ずきんをかぶり、刀をさし、
 手にじゅずを持って、しかもはこを背負っておったぞ。」

 村のあっちでも、こっちでも、この話でもちきりです。そうかといって、村人は遠まきに見ているだけで、だれ一人龍蔵院に近づこうとはしませんでした。

 その日から、山伏たちの読経の声が、朝、晩と静かな村にひびきわたりました。
ちょうどそのころ、兄の頼朝に追われて、都に住めなくなった源義音経が、あてもなくしょ国を旅しているといううわさが、この小野ケ谷の村里にも流れてきました。
 さては、この山伏たちが義経さまとその家来かもしれんと、口から口へと伝わっていきました。
 ある日のこと、茂七の子どもが腹痛をおこして、急に苦しみ始めたのです。なにか悪いものにでも当たったのか、その苦しみようといったら、そばで見ておれないほどでした。
「はよう、なんとかせにゃあ、死んでしまうぞ。」
「ほんなこと言っても、近くに医者はねえし、どうしたらいいべ。」
 やぐるうように転げまわったあげく、ぐったりした子をだいて、茂七はおろおろするばかりでした。
 ともかくおしょうさんにみてもらおうと、龍蔵院にかけこんだのですが、さすがのおしょうさんも、これにはお手あげでした。
 その様子をじっとそばで見ていた山伏の一人が、命令するように言いました。
「いっこくも早く、無理にでも口を開けて、湯ざましをあたえなされ。それから、体は冷やしてはならぬ。温めるのじゃ。」
「少し元気になったら、われわれが持っているよく効く薬草をしんぜよう。せんじて飲ませるとよかろう。」
 幸いなことに、この人たちのす早い手当てと手厚い看病で、
茂七の子どもは七日ほどで、すっかり元気になりました。
 村人は心から礼を言い、それからは打ち解けて話をしたり、野菜や米などをことあるごとに運ぶようになりました。
 半年ばかりたったころです。
 ある朝、夜明けとともに畑仕事に出ていた茂七に、旅の身じたくをした山伏たちは、別れのあいさつをすると風のようにどこかへ去って行きました。
 こう言い残して…。
「われわれはわけがあって、願いごとをかなえるために、写経をしてきました。その経文(きょうもん)を観音さまに納めていきます。いつまでもお幸せに。」
茂七がすぐにかけつけてみますと、大般若経二百五十巻が、観音さまの前に山と積まれていました。
 どこのだれなのか、身分も身の上も、ついに聞いた人はなかったということです。
 でも、山伏たちの心は、小野ケ谷村の人々の胸にしっかりときざみこまれました。


〔 解 説 〕

 龍蔵院は歴史の古い寺で、いろいろな言い伝えが残されています。その一つがこのお話です。寺の古い汁物帳(じゅうもつちょう 寺の所有物を記したもの)に「大般若経凡二百巻」とあり、「弁慶書」とことわり書きがついています。
 昭和六十年に詳しく調査したところ、実際には三二〇巻ほどありました。経典はすべて写経で、末尾に年号を記したものもあります。最も古いものは平安時代末期、長寛二年(一一六四)五月一、九、十四、十八日づけの四巻があって、「執筆入道念西」と記されています。鎌倉時代に入って、正嘉三年(一二五九)の年号のものも六巻あります。
 町誌には、伝聞として義経、弁慶その他家来が写経したものを二代目住職の時代に伝来したとありますが、地元では古くから義経、弁慶の伝説として伝えられてきました。いずれにしても、当時の龍蔵院の隆盛をうかがうことができます。




17  てんぐのたたり

むかし、小野ケ谷に彦一という木こりがいました。
 一人むすこの良平といっしょに、山に行って木を切り出すのが仕事でした。むすこもよく働くし、まあまあ幸せに暮らしていました。
 欲を言えば、古くなった家を建てかえて、もう少し、ましな家に住みたいということでした。
「お父っつあん、思い切って建てかえるかえ。」
「そうだな、おらが山にもちったあ木があるし、おめえもよめごがほしかろうしな。」
 こうして、家を建てることにしましたが、山から木を切り出してみると、どうしても一本足りませんでした。
「あの木は切れんのう、お父っつあん。」
「あれか、あれはなあー。」
 彦一は考えこんでしまいました。
 あの木というのは、彦一の山の地境に生えている大きな松の木です。ひときわ高くそびえ立ち、とちゅうから大きな枝が出ています。それは彦一の山の方へのびていました。
 ところが、その松の木の生えているのは、お宮さんの森で、のびた枝は「てんぐのとまり木」といって、むかしからてんぐがとまるとおそれられていました。
 そんなわけで、切る気になれなかったのですが、なんせ、自分の山の方へ入りこんでいるのだから、おれのもんだとりくつをつければ切れないこともありません。
 迷いに迷ったあげく、とうとうある朝早くそこへ行き、彦一はその枝を切り落としてしまいました。
 その一本で木がそろって、立派な家を建てることができました。
それから、一年たち、二年たって、初めはおそれていたてんぐのたたりも、何事もなく過ぎたので、すっかり忘れてしまいました。
 そんな時でした。となり村から、屋しきの木を切ってくれとたのまれました。しいの木がでっかくなって、屋根にかぶさって因っているというのです。
「へえ、よろしゅうござんす。明日にでも行きやしょう。」
 軽い気持ちで引き受けて、次の日、彦一は良平を連れて、出かけて行きました。
 なるほど、ひとかかえもある大きなしいの木でした。
 屋根の方へぐんとのびた枝を見て、彦一はふっと「てんぐのとまり木」のことを思い出しました。だが、やめるわけにはいかず、枝をどんどん切りはらって、あとはその大きな枝だけになりました。

 良平が登って、そのつけねを切り落とそうとしましたが、もうちょっとのところで、どうしてものこぎりが進みません。
 良平は、片足でトントンとふみ、さらに強く二、三度ふみました。そのとたん、大きな枝はメリメリッと音をたてて、良平もろとも地面に落ちていきました。
 脳天を強く打った良平は、その場で息をひきとりました。
 あっという間のできごとでした。

 それからというもの、彦一は食べ物ものどを通らず、がっくりやせて、急にふけこんでしまいました。

(良平は死んじまった。とりかえしのつかねえことをしたもんだ。)
 彦一はつぶやきながら、「てんぐのとまり木」の下へやって来ました。こしを下ろしてぼんやりしていると、切ったはずの枝にてんぐが立っています。
「彦一よ、おまえはわしの大事なとまり木を切ったな。代わりにおまえの良平をもらったのさ。良平は働き者だから、おれの家来にするぞ。」
 彦一ははっと思って、もう一度見直しましたが、てんぐはどこにもいませんでした。
 切られた「てんぐのとまり木」の切り口が、みょうに白く光って見えるだけでした。


〔 解 説 〕

 幡豆町は山が多く温暖な気候に恵まれているため、植物の成育には大変良い環境です。そのため、以前は何百年の樹齢といわれる大きな木があちこちにありました。三番組の大松、床(とこ)崎の大松など有名です。これらの巨木、大木にまつわる話が随所に伝えられています。
 このお話の舞台は、小野ケ谷であるといわれていますが、正確な場所は分かりません。おそらく寺の近くと想像されます。
 終戦(一九四五)直後までは、どの神社や寺の境内にも古木、大木が空をおおうように茂っていました。大きな木は、歳月の重みを感じさせ、人々は尊いものとして恐れる心を持っていたのでしょう。特に神社や寺のものは、神仏が宿ると思われていたようです。
 このお話や他の大木にまつわる話も、そうした精神風土の中で言い伝えられてきたものです。




18  孝行むすこと山津波

 明治のころ、小野ケ谷には、わら屋根の農家が四、五十けんあって、東の高い山のふもとにも、何げんかの農家が並んでいました。
 その一けんに、一人暮らしのおばあさんがいて、そこへ一人の若者が養子に入りました。十七さいで、名を勇吉といいました。勇吉は、大変働き者で、おばあさんをとても大事にしました。
「こげんようしてもらって、わしゃあ幸せだのう。」
 おばあさんは、口ぐせのように言っていました。
 やがて、勇吉はよめをもらい、子どもも三人生まれ、ますます仕事に精を出しました。
 明治三十一年、その年は雨が多く、入梅には少し早いというのに、もう五日も降り続いています。
 勇吉は、戸口に立って空をながめていました。小降りになったかと思うと、またぶちまけるようにどしゃ降りになります。
「えろう、変な天気じゃのう。せっかくかった麦がくさらにゃいいが…。」
 おばあさんが、おくの間でつくろいものをしながら話しかけました。
「麦は、はざにかけといたで、まあいいと思うが、山からの出水が心配だなあ。」
 勇吉は、そう言いながら、裏手の山を見上げました。そして、「おや?」と、みょうなことに気づきました。

 山の中ほどで、大きな木がかたむいています。それが、次々と将ぎだおしになって木をたおしていきます。
「山くずれだ!」
 勇吉は、家の中へ飛びこみました。
「子どもを連れて外へ出ろ。早く。」
「早く、早く。」とどなる勇吉の声に、おかみさんは、ともかく子どもをかかえて出ようとしました。

 勇吉は、おくの間へかけこむと、おろおろしているおばあさんを背負って、戸口の方へかけ出したのです。が…。
 その時にはもう、大きな木といっしょにくずれ落ちてきた山の土砂が勇吉の家をおしっぶしてしまいました。
 ただ事でない物音を聞いて、となり近所の人々が、みのかさ姿でかけつけました。
「えらいことになった。」
「勇吉! 勇吉はおるか!」
 返事はありませんでした。
「人手が足らん。みんなを集めろ!」
 その声に、村中の男たちが集まって来ました。
 つなやとび口、棒などあらゆる道具が使われ、大木が取り除かれ、土砂やこわれた屋根が引き出されました。
「おおっ、だれかおるぞ。」
 どろにうまったおかみさんと二人の子どもでした。ぐったりして動きません。
「おい、ここにもだれかおるぞ!」
 太い柱の下に着物が見えます。
「これは、ばあさんだ。おお、その下に勇吉が…。」
 おばあさんを背中にしっかり背負ったまま、柱の下じきになっていたのです。
「勇吉、こんな時にも、おまえはおっかさんのことを思って、はなさなかったのか。」
 だれかのすすり泣く声がしました。
 村人は、しばらく雨の中に立ちつくしていましたが、やがて、まだ見つからない長男の正次郎(しょうじろう)を探しました。
 正次郎は、うつぶせになったうすの中で、きせき的に生きていました。

〔 解 説 〕

 小野ケ谷は一筋の川を挟んだ細長い山間の集落です。平地からかなり急角度の傾斜をもつ山も多く、このお話の勇吉の家もそんな山の麓にありました。今では、植林も進み、防護壁も施されていますが、むかしは集中豪雨に見舞われると、崖崩れや、山の土が押し流されることも度々ありました。
 勇吉は死後、愛知県知事から顕彰されましたが、それを記念して長寿尼寺に勇吉の顕彰碑が建てられました。明治三十一年六月のことです。
 長寿尼寺は、小野ケ谷の奥まった所にあり、かつては「もみじ寺」の名で、幡豆の名所の一つでした。今は廃寺となっていますが、勇吉の碑はこの境内の入り口近くに今も建っています。




19  小桜と安房

 戦国時代が始まろうとしていた室町時代の終わりごろのことです。

「もうし、小笠原の殿さまの城はどの辺りでござるか。」
 畑仕事をしていた老ばに、男女二人連れの旅人がたずねました。
「寺部のお城かのう。七、八町も行ったとこだが、そうれ、あの大きな松の木のちょっと向こうですがな。」
 老ばは指差しながら言いました。
 二人は、ていねいに頭を下げると、その場を去って行きました。男は大変そ末な身なりですが、顔や言葉づかいは、身分のあるさむらいのようで、女の人も高貴なお方にちがいないと思いながら、老ばは見送りました。

 しばらくして、二人は寺部城へやって来ました。案内をたのんで、大嶽金右衛門(おおだけきんえもん)に会いました。

「これはこれは、安房(やすふさ)殿ではないか。そのような身なりで、どうされたのですか。」
 男は、三浦安房といい、金右衛門とは以前から顔見知りの間でした。
「まあまあ、お上りなされ。」
 おくへ通された安房は、ここを訪ねて来たわけを話し始めました。
 将軍に仕えていた安房は、たびたびのいくさの中で、おきさきをお守りすることがありました。安房は、その時知り合った小野小桜と恋をし、二人はひそかに都からぬけ出して来たのだと言いました。
「こちらが、その小桜殿です。どうか、よろしゅうお願い申す。」
「ようわかりました。ごらんのとおり、ここは海も山もある所です。城主の安芸守(おきのかみ)さまにも相談して、きっと、よい場所へおかくまいしましょう。」
 金右衛門は、京の都からはるばる訪ねてきた二人を、快くむかえました。
 十日ほど過ぎたある日、金右衛門はにこにこしながら安房に話しかけました。
「安房殿、あなたの住まいができましたぞ。人目につかぬ所をと思い、少し遠くですが、ご案内しましょう。」
 安房と小桜は、金右衛門に従って、今の小野ケ谷の道をおくへおくへと歩いて行きました。山道を谷川沿いに登った所に、石がきを積んだ平地があり、そこに小さな家が建っていました。
「こんな所ですが、気に入ってくださいますかな。」
「いくさばかりの都の暮らしを思うと夢のようです。鳥の声と谷川の水音、わたしどもには、これほどありがたいことはありません。金右衛門殿、お礼申し上げます。」
 ここは、三の沢といい、小野ケ谷の一番おくの山あいです。向かいの山の高い木のこずえからさしてくる日に、谷川の水がキラキラ光っています。
「ほんに、小鳥の声もよく聞こえてきますねえ。」
 小桜も大そう気に入った様子でした。
 こうして、二人の生活が山の中で始まり、安房は山のふもとで田畑を耕し、小桜は村へ行って読み書きを教えたり、都の話を聞かせたりしていました。
 そうしているうちに、村人たちともすっかり打ち解け、安房は大変尊敬され、やがてたのまれて村の長になりました。
 夫婦の間に生まれた三人の男の子もすくすく成長し、幸せな日が続きました。
 しかし、ある年、ふとしたことから、小桜は病のとこについてしまいました。安房の手当てのかいもなく、病気は重くなるばかりでした。小桜は夫をまくら元に呼びました。
「わたくしは、もう長くは生きられないでしょう。一つだけ願いごとをお聞きくださいまし。」
「なんなりと言うがよい。きっとかなえてやろうぞ。」
 安房は小桜の手をしっかりにぎりました。
「わたくしの祖先は、小野篁(おののたかむら)でございます。不幸にして、父には女の子しかいませんので、わたくしが死ぬと家名は絶えてしまいます。わたくしたちには三人の男の子がいます。長男には三浦の家をつがせ、次男にはどうか小野家を名のらせてくださいまし。」
 小桜の閉じたまぶたから一すじのなみだが流れました。
「よくわかった。必ずそうしよう。」
安房の目からもなみだがこぼれ落ちました。
「ありがとうございます。」
 かすかな声でそう言うと、小桜は息をひきとりました。
 小野篁の子孫という話はたちまち村中に広がり、小桜の死を悲しみ、名を残そうと、その村を小野ケ谷と呼ぶようになりました。


〔 解 説 〕

 小野ケ谷の奥から山間をぬって三ヶ根山へ登る細い道があります。山道に入ると間もなく小さな土橋を渡り、そこから右へ五十メートル登った所に小桜の屋敷跡があります。
 幸田町大字菱池の小野さんは、この小桜の末裔といわれ、大切に保存されている巻物の系図に、このお話が記されています。
 系図によれば、室町時代末期、永正五年(一五〇八)のことで、小笠原氏が寺部城に居城して間もなくのことです。また、安房は姓を三浦といい、相模の国(今の神奈川県)の豪族で将軍に仕えていました。小桜は京都の生まれですが、やはり女官として仕えていました。幡豆の地で小桜が病死した後、安房は幸田に移り住んだと記されていますが、三浦家は西尾、小野家は幸田で今も立派に家系が守られています。
 相模の武士と京の女官が、幡豆に安住の地を求めてきたというこのお話は、戦国時代の一面を見る思いがします。




20  座頭泣かせ
むかし、目の見えない人を座頭さんと言っていました。
 一人の座頭さんが石塚峠のでこぼこ道を上ってきました。目が見えなくても、ひんやりした感じで、木がおいしげった様子がわかります。
「おお、さびしい所じゃのう。はよう幡豆の里に出たいもんだ。」

 コツコツとつえで地面をたたきながら、やっとのことで峠をこしました。
 明るい日ざしが顔にあたって、風も海のにおいがします。
「やっと幡豆の里だ。宝飯の里まであと一息、ここからはのんびり歩いて行けそうじゃ。」
 独り言を言いながら、しばらく行くと、道はまた、上り坂になってきました。もしや道をまちがえたかと思いながら、通りすがりの村人にたずねました。
「こちらへ来なさったのは初めてかえ。そんなら、峠を数えて行きなさるといい。三つこえたら桑畑村じゃ。そこで、またお聞きなされ。」

 お礼を言って歩き始めたものの、座頭さんの考えていた、海の風がふく気持ちのよい道とはだいぶちがいます。
「やれやれ、また峠か。こう上ったり下ったりでは、たまらんわい。」
 油断すると、石ころにつまずいたり、足をすべらせるので、少しも気が休まりません。
 やっとのことで、三つ目の峠をこえて、桑畑村までやってきました。
「もうし、宝飯の里へぬけるのは、この道でよろしゅうござんすか。」
 そこで、もう一度村人にたずねました。
「この道をまっすぐに行きなせえ。すぐ先の長円寺坂をこえるとな、あと二つばかり小さな峠があって、それから風越(かざこし)峠をこえれば、そこが宝飯の里じゃよ。」
「ええっ、ほんとに、そんなに峠があるんかのう。わしは目が見えんが、ここは確かに幡豆でしょうな。」
 座頭さんには、みんなが意地悪をしているように思えたのです。
 ばかにされたと腹をたてて歩いていたので、坂を上りながら、つい足をすべらせて転んでしまいました。情けなくて、なみだが出てきました。
「道を聞けば、峠、峠と、峠の数ばかり。あんまりじゃ、あんまりじゃ。」
 ちょうどそこを、一人の商人が通りかかりました。
「これはこれは座頭さん、いったいどうなさった。」
 座頭さんは、今までのことを話しました。
「みんなが、わしをばかにして…。」
 わけを聞いた商人は、幡豆の土地の様子を、ていねいに話しました。
「この辺りは、海に沿った、帯みてえに長い村だ。山も海までせまっとって、そこに道があるので、峠や坂ばっかりというわけじゃ。とちゅうまで、わしといっしょに来なさるかえ。」
 商人は明るい声で笑いました。
 座頭さんもその声につられて、やっと気を取り直して歩き始めました。
「いろいろ、ありがとうさんでした。目が見えんからといって、人を疑っちゃいけねえな。
けど、もうこんな村はこりごりじゃ。」
 別れ道にきた時、商人に礼を言うと、座頭さんは最後の峠、風越峠へと上って行きました。
 このようなことから、幡豆の地は、「座頭泣かせ」とも言われました。


〔 解 説 〕

 幡豆町は、近隣市町の中でも山々がつくる特異な地形をしています。町の北から南に向けて、三ヶ根山を頂点とするいくつもの山すそが海岸線までのびて、平地に多くの起伏をつくっています。山並みが平地に突き出ている所を、西から数えあげると次のようになります。
 鳥羽と乙川の境辺り、神明社の裏山、八幡と鳥羽境の山、見影山のすそ、安泰寺の裏山、桑畑と上畑の境辺り、上畑と彦田、彦田と谷村、谷村と山口のそれぞれの境、そして鹿川と山口の間もまた山になっています。
 むかしは、村から村へ、山越えの道、山すその道、海沿いの道がありましたが、いずれも地形から来る坂道の連続で、幡豆に入った旅人が、難儀をしたであろうことは、容易に想像できます。




21  証文岩

江戸時代の初めごろ、大変な日照り続きの年がありました。水の少ない谷村では、いねはたちまち黄色くなってしまいました。このありさまでは、年貢どころか一つぶの米もとれません。そこで、村人は殿さまにお願いしました。

 その時の殿さま、松平正綱(まつだいら まさつな)は、村人の話を聞いて、代官の石塚久左衛門(いしづかきゅうざえもん)に、谷村の様子を調べるように言いつけました。
「これはひどい。これほどとは思わなんだ。」
 代官は、白くかわいた田のあぜに立ってつぶやきました。その帰り道、代官は、おいしげった草の下をさらさらと流れる水の音を聞いたのです。さっそく、上へ上へと流れをたどっていきました。

「おお! 水だ! この日照りにこれだけの水があるとは。しかも、谷村はこの下の方ではないか。」

 しかし、それは上畑村の池の水でした。
 代官は、その足で、上畑の庄屋源左衛門(げんざえもん)の家へやって来ました。
「そういうわけで、殿も大変心配しておられる、上池の水を谷村に分けてくれんか。のう源左衛門。谷村の田んぼが生き返るのだ。」
 源左衛門は、重い口を開きました。
「お代官さま、ご承知でござりましょうが、水は百姓の命でごぜえます。
わたしがここで返事をするわけにはまいりません。」
「わかっておる。百姓しゅうに、ようく話をしてくれ。いずれ総寄り合いでは、わしからもたのもう。」
 あくる日から代官は、上畑村、谷村の村方の家を回りました。となりの村々の庄屋にも協力をたのみました。最後に、森村の大庄屋善右衛門のところにやって来ました。
「お代官、百姓の命である水をくれというからには、それだけのはらはできておられましょうな。」
 善右衛門は代官の心をさぐるように言いました。
「わしはのう、善右衛門、命にかえても谷村の百姓を救ってやりたいのじゃ。」

 さて、それから3日後、上畑村は総寄り合いを開きました。代官も大庄屋も、谷村の村方も来ています。上畑村の上池から谷村へ水を分ける話は始まりました。上畑の庄屋が一通り話して、谷村の庄屋も深く頭を下げました。
 とつぜん、おこったような声がしました。

「池は、おれたちのもんだ。そうずら庄屋さ。よそ村へ水をやって、おれたちのいねがかれたらどうするだえ。」
 その声に続いて「そうだ、そうだ。」とあちこちで声があがりました。
「谷村のしゅうよ、。おめえさん方、人の水ばかりあてにせんで、てめえたちで池をほったらどうだ。そうじゃねえか。」

 非難は谷村の方にも向けられました。
「わしらも、むろん、やるだけのことはやりました。だがのう、谷村の山はどこをほっても岩ばかりで、水も細くてのう。」
 谷村の庄屋の困り果てた口ぶりに、みんなは、しんとなりました。その時を待っていたように、代官が言いました。
「上畑の百姓しゅう、お前たちの言い分も、もっともじゃ。だがのう、いま上畑のいねは青々としとる。が、谷村のいねはかれかかっておる。あと十日ともつまい。」
 代官は、なおも話を続けました。
「上畑に池が二つある。上池には水も多い。全部とは言わん。上畑の田んぼに水が切れたら止めればいい。同じ百姓仲間だ。助けてやってくれ。このとおりじゃ。」
 頭を下げて代官が言い終わると、すぐに大庄屋の善右衛門が言いました。
「お代官の言われるとおりじゃ。それで万一大きな不作になれば、年貢のことも考えてくだされよう。そのときは、わしとて、いかような責任も取る覚ごじゃ。上畑のしゅう。わしからもおたのみ申す。」
 ふだんから尊敬している大庄屋に深く頭を下げられて、みんな水を打ったように静かになりました。
 その静けさを破ったのは、いつもは無口な若者でした。
「おわには、よく分かりましただ。今のお言葉にまちがいはござりましょうが、どうか、それを書いた一札を明日にでもいただきとうごぜえます。」
 代官に向かって証文を書けという若者の言葉に、みんなはびっくりしました。大庄屋が何か言おうとしましたが、代官はそれを手で止めて、キッパリと言いました。
「心得た。二人の連名で判をおして、明日にでも持参しよう。」
 若者は、ていねいに礼を言うと、「もう一つお願いがございます。」と続けました。
「代官さま、その証文を岩にほりつけていただきとうございます。」
代官はおどろきました。みんなはもっとおどろきました。
「水のいのちは、三年や四年ではござりません。五十年、百年とほり割りの水は流れ続けましょう。紙の証文では何がござりましても…。」
「うーむ、そのとおりじゃのう。しかと心にきざんでおこう。上畑のしゅう、それでよろしいかな。」
 何人かの人がうなずきました。だれも反対しません。谷村の村方は頭を下げたまま、なみだをぽたぽた流しました。
 翌日からほり割り工事が始まりました。上畑からもとなり村からも手伝いに来ました。そして、七日目には、池の水が音をたてて流れはじめました。

 それから三百年余り、今もほり割りの水は流れ続けています。ほり割りの上の山には、刻まれた文字が風化して消えたまま大きな岩が立っています。それが証文岩です。


〔 解 説 〕

 いくつもの山のすそが、そのまま海岸線をつくっている。そんな地形が幡豆町の特色です。豊かな水を供給する川がなく、田や畑も多くは沢や丘陵地にあります。そのため、夏の渇水期をどう乗り切るかが、昔の百姓にとって生死を左右するほどの問題でした。幡豆町のほとんどの沢にため池があるものそのためです。
 そうした地形を背景にしたこのお話は、ほぼ実話で現在も証文岩といわれる大きな石碑が彦田と谷村境の山に、文面が風化したままあります。




22  わんかし塚

 むかし、小見行(こけんぎょう)村にかじやの八兵衛(はちべえ)という男がおりました。正直で働き者ですが、少し頭が弱いようでした。一文や二文はらいが少なくても、「へえ、へえ、確かに。」と言って、ろくすっぽ数えもしないで、ふところに入れました。
 村人のなかには、一つ足りないということで、八兵衛を「七兵衛」と呼ぶ者もありましたが、気にするふうでもなく、にこにこしていました。
 かじやのうではよいので、仕事はたくさんありましたが、根っからのお人よしときているので金がたまらず、いつも貧ぼうな暮らしをしていました。
 さて、むすこが二十さいになったとき、よめさんをもらうことになりました。婚礼には大勢のお客を呼ばなければなりません。そこで、はたと因ってしまいました。
「ごっつぉうは、まあ何とかなるとして、ぜんをそろえる金がねえ。」
 困った、困ったと思っているうちに日が過ぎて、あと七日もすれば婚礼の日です。
せっぱつまった八兵衛は、いつもお参りする観音さまに、とんでもない願いごとをしました。
「観音さま、せがれの祝言(しゅうげん)にぜんが足りねえだ。ぜんを貸してくだされ。」
 真けんに、何度も何度も拝みました。すると、お堂のおくから不思議な声が聞こえてきました。
「八兵衛よ、ほしいぜんの数だけ手をたたきなさい。そして、その日、朝一番にここへ来るがよい。」
 八兵衛は、しばらくぽかんとしていましたが、言われたとおり、十回手をたたいて家へ帰りました。

 祝言の日、夜明けを待ちかねて、うす暗いうちから観音さまのところへとんで行きました。
「やや…。これは、これは。」
 お堂の前に、立派なぜんが十きゃく、おわんもそえて、きちんと置いてあるではありませんか。
「ありがとうごぜえます。観音さま。なんとお礼を言ったらいいか…。」
 なみだを流して喜ぶ八兵衛に、この間と同じ声が聞こえました。
「ぜんとわんを貸すのは、きょう一日だけじゃ。忘れるでないぞよ。」
「はい、はい。よくわかりました。ありがとうごぜえます。」

 八兵衛は何度もお礼を言って、ぜんを家に運びました。
 祝言が始まりました。
 どのお客も、立派なよめさんとむこさんをほめました。が、もっと目をみはったのは、並べられたぜんとわんのみごとなことでした。

「わしゃ、七兵衛なんて呼んでばかにしとったが、今までこんないいおぜんでよばれたことはねえぞ。」
「おれもだ。ほんにたいしたもんよ。」
 にぎやかな祝言が終わると、八兵衛はぜんとわんをきれいに洗って、その夜のうちに返しに行きました。
 その後、わん付きのぜんを貸してくれる観音さまの話は、辺りの村々にまで広まりました。人々は事あるごとに、八兵衛に教わったとおりお参りし、ぜんを借りました。
 さて、それから数年後のことです。
 村の大助の家で法事がありました。おしょうさんのお経も終わり、借りてきたぜんで酒盛りが始まりました。酒好きの大助は、よめさんが止めるのもきかずにたらふく飲んで、グーグーねてしまいました。目が覚めたのは、もう明け方近くでした。
「しまった。おらあ、ねちまっただか。」
 あわてて返しに行こうとしましたが、おぜんもおわんも見つかりません。血まなこになって外まで探し回りましたが、どこにもありません。とうとうあきらめて、大助は観音さまの前に来ました。
「酒飲みすぎて、忘れてしまっただ。決して悪気があったわけでねえ。返そうにもぜんもわんも消えてしまった。許してくだされ。」
大助は何度も頭を下げて、あやまりました。

 それからは、村人がいくらたのんでも、観音さまは知らぬ顔をしておられました。


〔 解 説 〕

 東幡豆小学校の西南に当たる三叉路の北側にかなり高い石段があります。町中で気づきにくい場所ですが、考えると不思議な所です。そこだけが、六、七メートルの高さに土盛りのような形で残っています。その頂上にあるのが塚越観音です。
 由緒に「大化年中のころまで、この塚にかくれ人形住居し給う処に、不思議や西国第一の札所那智山の瀧壷へ越されし故に、この塚を塚越しと唱えたるものである。」とあります。御本尊は約一メートルほどの石像で弘法大師作と伝えられています。
 なお、この塚は古墳の頂上部で、かつて境内改修の際に発見された古墳がそのまま埋められているということです。
 わんかし塚の話は、古老の語り伝えによるもので、いつごろのことか、確かなことはわかりませんが、お堂はいかにもこの伝説に似つかわしいたたずまいをしています。




23 弁天さまの白いへび 

 山口の養寿院(ようじゅいん)の裏に小さな池があって、そのそばに、弁天さまがお祭りしてありました。
 一本のだもの木が、その弁天さまの社にかさをさしかけたように、枝を四方に広げてそびえていました。
 いつのころからか、村人の間で、この木には一ぴきの白いへびが住んでいるとうわさするようになりました。
「白いへびは弁天さまのつかいひめじゃ。」と言って…。
 ところが、この村に一人だけ、このだもの木を大変めいわくがっている者がいました。百姓の半助です。
 半助の畑は、この木のために、一日中、日が当たらず、何を作ってもよくできません。
「全く、いやになっちゃうな。こんな小せい大根ばっかりじゃ。にてもまずいし、つけてもかてえし…。」
 ぶつくさ言いながら、半助はいまいましそうにしげった木の枝を見上げて、ため息をつくのでした。
(あの木にゃ、弁天さまの白いへびがいるそうだで、切るわけにもいくめえ。)
 半助は、やせた大根をぶらさげて、とぼとぼと家へ帰りました。
しかし、どうしてもあのだもの木がしゃくにさわります。
「あの木に白いへびがおるなんて、うそだべ。おらあ、毎日畑へ行っとるが、まんだいっぺんも見たことねえや。」

 そうつぶやきながら、とうとう、自分の分のいいように考え始めました。そして、しばらくたったある日、半助はかまとのこぎりを持って出かけました。
「ほんのちょっと、切らせてもらいますぜ。」
半助は木に登ると、畑の上につき出している枝を切り始めました。
(へへっ。なんともねえじゃねえか。)
 調子にのって一本、また一本と切り落としました。ちょうど五本日の大きな枝に取りかかったときです。
(おかしいぞ。体がぶるぶるふるえて、手に力が入らねえ。)
「あっ、だれかきてくれ。助けてくれ!」

 大声で人を呼んだつもりでしたが、声はちっとも出ませんでした。
「うっ、う、うー。」

と、うなると、半助は木からまっさかさまにドスーンと落ちて、気を失ってしまいました。
(何の音じゃ。へんな音がしたが…。)
となりの畑で仕事をしていたか太郎作(たろさく)がかけつけました。
「半助どん、どうした。しっかりせい。」
 太郎作が体をゆすっても返事がありません。見てもけがはないようです。

「水でもぶっかけりゃ、気がつくべえ。」
 どっこいしょと立ち上がり、水をくみに行こうとして、ふと上を見ました。
「だ、だれか来てくれ!」
 まっ青になった太郎作は夢中でさけびました。そのはずです。だもの木の切り口からまっ赤な血が落ちていたのです。太郎作は、おそろしさでこしがぬけ、はうようにしてにげ帰りました。
 やがて、半助は正気を取りもどしましたが、その後、たましいをぬかれたように、つぶやいていたということです。
「白いへび。弁天さまの白いへび。木から血がぽたり、ぽたり。白いへびがすうっと天へのぼった。」

 だもの木はいつしかかれてなくなり、弁天さまもよそへ移されました。


〔 解 説 〕

 東幡豆の山口にある養寿院は、三ヶ根山のふもとの丘陵地にあります。
 町誌に、由緒として「天正年間(一五七三〜一五九二)に山口村を開いた覚誉(かくよ)上人が創立されたとの言い伝えがある」と書かれています。
 この寺の裏に大きなだも(学名はたぶという)の木がありましたが、台風で倒され、今はその株から芽生えた木が育っています。このだもの木は、幡豆町の海岸部に多く成育し、沖島にはだもの巨木も数本見られます。
 白い蛇を神様のつかいとする伝説は他の地方にもありますが、樹木に光をさえぎられる耕地とのからみで言い伝えられてきたことに、耕地の少ない幡豆町ならではの感じがします。




24  朱面天神
 山口に養寿院というお寺があります。
 むかし、そのお寺のおしょうさんは、村の子どもたちを集めて、読み書きを教えておりました。
「さあ、手習いを始めようかのう。」
 おしょうさんがやさしく言います。すると、
「おもしろい話の方がいい。」

 子どもたちは、こうやり返すわんぱくばかりです。いたずらをすると、おしょうさんは口ぐせのようにいいました。
「これこれ、悪いことをすると、かけじくの天神さまが見てござるぞ。この天神さまは、字の神さまじゃ。みんな拝むといい。」
 そこには天神さまのかけじくがかかっていました。それは以前、この寺にとまって絵をかいていた法眼(ほうげん)さんからいただいた大切なかけじくです。
 さて、お寺に通ってくる子どもたちの中に、正吉という子がいました。素直で心のやさしい子でしたが、熱心に読み書きの練習をするのに、どうしたわけか、少しも字が覚えられないのです。
「正吉はがんばっとるのに、どだい字が書けんし、かんじょうもようできやせん。」
 おしょうさんも大変心配していました。
 母親の心配は、それよりいっそう大きく、時々、正吉の様子を寺へ見にくるほどでした。
「あの子は小さい時、重い病気をしたからのう。それでも、人並みにはさせたい。」
 ある日、そう思いながら、見るともなしに正面の天神さまのかけじくに目をやりました。よく見ると、ほんとうにおだやかな顔で、しんけんにお願いすれば、どんな願いもかなえてくださるように見えました。
 それから毎日、だんごを作ればだんごを、おはぎを作ればおはぎをお供えして、お参りしました。
 ある時、ふと、お神酒のないことに気がついて、お供えものといっしょにお酒もお供えしました。
「天神さま、どうぞおめし上がりくだされ。そうして、正吉が人並みに読み書きができるように・・・・・。」
 母親は、そんな願いをこめて手を合わせ、ふと顔を上げて天神さまを見ました。
「あれ!」
 母親は本当にびっくりしました。それもそのはず、天神さまの顔がほんのり赤くなっています。
「おしょうさん。ちょっと、ちょっと。」
 おしょうさんもかけじくの前にすわり、つくづくながめました。
 
「これは、信心深いおまえさんと、親思いの正吉を思って、天神さまがお供え物をめし上がったのさ。きっと願いはかなうぞな。」
 おしょうさんは正吉をはげまして、熱心に字を教えました。
 母親も前にもまして、酒を供えては手を合わせ、ほんのり赤くなった天神さまを見ては、一心にお願いしました。
 それからしばらくして、正吉が今まで覚えられなかった字を一字、また一字と、しだいに早く覚えられるようになりました。
 そればかりか、人一倍じょうずな字が書けるようにもなりました。
「正吉、おまえ、すげえなあ。」
 他の子どもたちもびっくりして、まぶしそうな目で正吉を見ました。
 正吉の両親はなみだを流さんばかりに喜び、お礼参りもずっと続けました。

 それから、村の人々は、天神さまがお供えのお酒をめし上がり、ほんのり赤くなられると、その願いがかなうと言い伝えました。そして、天神さまを、「朱面天神」と呼ぶようになりました。




〔 解 説 〕

 江戸時代末期から、学制施行がゆきわたる明治十年ごろまでの間、幡豆町にも多くの寺小屋がありました。大部分はその名のとおり、お寺がいわば、今の学校の役目を果たして、読み・書き・そろばんを教えていました。
 このお話は、そのころのことで、山口の養寿院の今の住職さんからお聞きした話です。
 寺に、今も保存されている天神さまの肖像画の掛軸は、大変古いので作者の字は読めませんが、法眼の位をもつ絵師の作品と伝えられています。
 この掛軸の由来は、その法眼、床崎の一本松を描くのにお寺に逗留したことにあります。
 法眼は、絵を描いたものの、あまりに見事な枝ぶりの松のため、何枚描いても思うように描けず。とうとうあきらめて、この掛軸をお礼に置いて立ち去ったそうです。



25  からすてんぐの松
 むかし、洲崎の村に、それは立派な松の木がありました。
 ある日、その松に大変かわったかい物が赤ん坊をかかえてまい降りました。
 顔は真っ黒で、口はとがり、かたには羽が生え、体は人間で、姿は鳥というきみょうなかい物でした。
 それは、「からすてんぐ」と呼ばれ、泣いて親を困らせる子や、悪さをする子をさらって行くという言われていました。
「こら、だまれ。泣くなというのに―。」
 からすてんぐは、泣きじゃくる赤ん坊をどなりつけました。
 しかし、赤ん坊は泣きやみません。
「くそったれ、言うことをきかんがきだ。」
 ますます大きな声で、火のついたように泣く赤ん坊に、さすがのからすてんぐも困り果てました。
(そうか、腹が減っとるだか。どこかに乳を飲ませてくれる女はおらんもんか。)
 つぶやきながら、辺りをきょろきょろ見回すと、ちょうど、畑のすみで乳を飲ませている女がいました。

「おい、この子におまえの乳を飲ませろ。」
 からすてんぐは、いきなりその女の前に降り立つと、赤ん坊をつきつけました。
「なんで、わしの乳を・・・・・。」

「そうか、そうか、そげん腹が減っとるだか。さあ、たんと飲めや。」
 そう言って、乳を飲ませてやりました。
 赤ん坊はむしゃぶりつき、コクン、コクンと、のどを鳴らして飲むと、安心したのか、おかみさんのうでの中で、ねむりこんでしまいました。
 この様子を見ていたからすてんぐは、なにを思ったのか、「すまん、この子をしばらく預かってくれ。礼はきっとするから―。」
と、言い残して飛び去ってしまいました。
 あっけにとられたおかみさんは、困ってしまって、とにかく家へ連れて帰りました。
 そして、兵次郎と相談して、その赤ん坊を育てることにしました。
 月日がたち、赤ん坊は兵次郎夫婦に、わが子同様にかわいがられて、すくすくと育っていきました。
 ところがある日、遠州からその子の両親だという人が、洲崎村をはるばるたずねて来ました。
 わけを聞くと、数年前に、からすてんぐに子どもをさらわれ、この洲崎にまい降りたといううわさをたよって、やって来たとのことです。
 話を聞いた兵次郎とおかみさんは、こしをぬかさんばかりにおどろいてしまいました。何から何まで、自分の子と分けへだてなくかわいがってきたこの子を、急に連れていかれるのは、胸をえぐられる思いです。
 しかし、泣いてどげざする親の姿を見ると、気のやさしいおかみさんは、断ることができませんでした。
「ええか、もう二度とからすてんぐにさらわれんようにな。体に気いつけて、いい子になれや。」
 おかみさんは、目になみだをいっぱいためて言うと、子どもの頭をなごりおしそうに、何度も何度もやさしくなでました。
 その後、兵次郎の家には、からすてんぐが、「きっと、礼はするから―。」と言ったとおりに、良い事ばかりが続きました。



〔 解 説 〕

 愛知子どもの国の南側に洲崎の集落が、海岸に沿って広がっています。この集落の西方の丘陵地に猿田彦神社があります。
 こじんまりとした境内に立つと、洲崎の集落を一望してはるか渥美の方まで望むことができます。この小高い境内の端に、言い伝えの「からすてんぐの松」がありました。今は、切り倒されて古い根株が残っているだけですが、黒くひび割れた堅い松の芯から、さぞ高くそびえていたであろうと想像できます。
 このお話は、いつごろのことかはっきりしませんが、土地の何人もの古老が知っているので、あるいはこのような事件があったのではないかと思われます。



26  御堂のだいじゃ
 ずっと、むかしのお話です。
 洲崎村に、「御堂山」と呼ばれる小さな山がありました。そこに、村の先祖をお祭りした神宮寺のお堂がありました。
 しかし、時代が変わるにつれて、いつの間にかお参りする人もなくなり、その辺りは背たけほどの草が生え、お堂の姿も見えないほどになってしまいました。
 でも、お堂の横を通る細い道は、西浦村へ抜ける近道だったので、昼間だけはその道が使われていました。
 ある日のことです。西浦村の尼さんが、洲崎村の定兵衛さんの家へお勤めに来て、話しこんでいるうちに帰りがおそくなってしまいました。
 尼さんは、(今夜は月も出ていることだし・・・・・・。)と思って、夜は通ったことのない御堂山の近道を帰って行きました。
 ちょうどお堂の前を通りかかった時、おいしげった草むらがざわざわして、何か大きな物が動いていることに気づきました。気味悪く思いながらも良く見ると、見たこともないほど大きなへびでした。その体は月の光であやしげに光っていました。頭は尼さんの方を向き、今にもおそいかかってきそうです。
 尼さんはおそろしさで足がすくみ、その場にすわりこんでしまいました。頭は尼さんの方を向き、今にもおそいかかってきそうです。

 尼さんはおそろしさで足がすくみ、その場にすわりこんでしまいました。が、とっさに手を合わせて、お経を唱えはじめました。
 すると、だいじゃの動きが止まり、おびえる尼さんに向かって、静かだけれど力強い声で言いました。

 「わたしは、洲崎村の先祖のつかいじゃ。村の者たちは、先祖のことをすっかり忘れてしまい、御堂山がずいぶんあれはてておる。ご先祖さまは、大変腹をたてておられるぞ。村の者によく申しておくがよい。」
 おごそかに言ったかと思うと、だいじゃは物音一つせずに、どこへともなく消えて、行きました。
 尼さんは、おそろしい夢から覚めたように、ふらっと立ち上がると、急いで定兵衞さんの家へ引き返して、今あったできごとを話しました。
「これはな、きっとご先祖さまのおつげにちがいない。定兵衞さんや、むかしのように御堂さんをお祭りした方がええぞな。」
 尼さんの話をじっと聞いていた定兵衞さんは、わかったというようにひざをたたいて言いました。
「よし、村のためにも、このわしができるだけのことをするだ。」
 あくる日から、定兵衞さんは一心に御堂の周りの草をかり始めました。照っても、降っても、朝は仕事前の暗いうちから、夜は仕事が終わり星が見えるまで、毎日毎日お参りしては、周りをきれいにしていきました。
 それからしばらくたったある年、天候の加減で大変作物のできが悪く、どこの家でも食うに困るほどの不作でした。
 しかし、不思議なことに、定兵衞さんの田畑だけは、前の年にも増して豊作でした。
「定兵衞さんよ、おまえの家だけ、なんでこげんに豊作なんじゃ。」
「いやあ、わしにもさっぱりわからんて・・・・・・。」
 定兵衞さんはそう答えたものの、その後で独り言のように付け加えました。
「きっと、御堂さんがお守りくださったんじゃろうよ。」
 そんなことがあってから、御堂山は村中でお守りすることにして、秋には祭りのにぎやかなふえやたいこの音が聞こえるようになりました。




〔 解 説 〕

 洲崎から愛知子どもの国へ登る途中から、細い道を右に折れて山地へ入った所に、このお話の舞台となるお堂があります。境内の周りには大きな木が茂っています。
 境内の下には、むかしの道がわずかに残っています。草に埋まったその道は、竹藪の茂みの中へとのびています。これが西浦へと通じるむかしの道で、いかにも伝説の中の一こまのような場所です。
 



27  六部の井戸
 江戸時代というから、ずいぶんむかしのことです。鹿川(ししかわ)の山のふもとに、古い井戸がありました。この井戸には大きな石のふたがしてあります。
 百姓の松造は、その井戸から少しはなれた所に住んでいました。
 冷たい風のふく、ある夜のことでした。
「おたのみ申す、おたのみ申す。」
 松造の家の戸をたたく者がありました。
「はてな、人の声がしたようだが・・・・・。まさか、今時分くる人もないはずじゃが。」
 じっと耳をすましていると、また、戸をたたきます。
 松造が戸をあけると、一人の旅人が立っていました。年老いた六部さんでした。
「やどに困っております。どうか、一晩おたのみ申します。」
「それはそれは、外は寒かろうに。さあ、とにかく中へ入ってくだせえ。」
 松造は、その日暮らしの貧しい百姓でしたが、快く旅人をむかえました。
「ごらんのとおり、おらは水飲み百姓だ。何もないがこんなもんでがまんしておくんなせえ。」

六部さんは松造が差し出したいもがゆを、うまそうにすすりながら、
「冷える時には何よりのごちそうじゃ。おかげで、体がぬくとうなりました。」
 ありがたがって、何度もお礼を言いました。
 
  さて、あくる朝、まだうす暗いうちに松造が目を覚ますと、六部さんは、もう表戸の所に立って、低い声でお経を唱えていました。
 そして、松造の姿を見ると、手招きして呼びました。
「こちらへ来て、ごらんなされ。」
 六部さんは戸を少し開けると、不思議そうに近づいて行った松造に、外の方を指差しました。
「向こうにかすかな光が見えましょう。あれは大変ありがたい光です。あそこには、何か尊い物があると思われます。決して、そまつにしてはなりませぬぞ。」
 六部さんはこう告げると、冷たい風のふく道に消えるように去って行きました。

 六部さんが指さしたところは、あの石のふたのしてある古い井戸でした。
 松造は庄屋さんのもとにとんで行って、村の人たちにもこのことを話しました。
 なにしろ、だれも中をのぞいたことのない井戸です。けれども、「そまつにするでないぞ。」と言った、六部さんの言葉も大変気がかりです。
 みんなの間で、いろいろな意見が出されました。
「そのありがたい物をどうでも見てえもんだ。とにかく、ふたを開けたらどうだ。』
「ばかなことを言うもんでねえ。井戸神さまのたたりがあるぞ。おらがわんぱく坊主が、あの井戸の上で遊んでおったら、その晩ひでえ熱を出してこりたことがあった。やっぱり、そっとしといた方がいいのじゃねえか。」
 話はなかなかまとまらず、時間だけが過ぎていきます。
「みんながやらんなら、おれがふたを開けてみるぞ。」
 待ちきれんという様子で、村一番の力持ちの佐助が立ち上がると、いきなり石のふたをどけようとしました。しかし、びくともしません。
 佐助は、りきんであせりすぎたせいか、うんと力を入れたとたん、こしを痛めて、その場にすわりこんでしまいました。ぎっくりごしになって、はうようにして家へ帰って行きました。
 その翌日も寄り合いで、またもや井戸の話になりました。
「あいつがこしを痛めたのも、やっぱりたたりだ。だで、いじっちゃならねえ。」
「しかしのう。このまま、ほっとくわけにもいくめえ。」
 またまた、話はまとまりません。
「ふたをこのままにしといて、井戸をお守りするお不動さんをわきへ祭ったらどうかと思うが、みなのしゅう、いかがかのう。」
 最後に松造が口を開くと、村人は顔を見合わせてうなずきました。
 お堂を建て、お不動さんにお参りしたおかげなのか、その後、どんな夏の日照りにも、鹿川村では井戸水がかれることは一度もありませんでした。




〔 解 説 〕

 鹿川の集落は、幡豆町の東の端にあります。沢状の土地に走る一本の川の西側に家が並んでいます。沢が深いため、水量は多くありませんが、川の水は絶えることはないといわれています。
 お話の六部の井戸は、道路ができたときなくなりましたが、その辺りは南側の山裾で絶えずわき水が垂れています。道路の側溝にも豊かな山の水が流れ、伝説の井戸の辺りと思われるところに、大きな石が数個、山の側に寄せられています。



28  なまくさ
 鹿川は山あいの小さな村です。人々はせまい田畑を耕してほそぼそと暮らしていました。田植えの季節となり、清吉は夜明けを待ってなえの様子を見に行きました。
 ところが間もなく、血そうを変えて家かけこんできました。
「おっかあ、えらいこっちゃ。なわしろがめちゃくちゃだがや。」
「なんでだ。だれがやったずら。」
 このさわぎにとなりの喜平もとんできて、いっしょに田んぼへかけつけました。
「こりゃあ、ひでえ。なえも全く使いもんにならんわい。」
 三人はあちこちさがしましたが、だれのしわざかさっぱりわかりません。
 次の日、今度は喜平が青くなって、清吉のところへ転がりこんで来ました。
「お、おれもやられた。一晩のうちに、にわとり全部じゃ。」
 言い終わらないうちに、喜平はへなへなとすわりこんでしまいました。
 おお事です。話はたちまち広まり、村人たちがわいたい集まってきました。
「こりゃ、なんだ。ずるずる引きずったあとがあるぞ。」
 村人の一人が、びっくりした声をあげました。
「きっと、にわとりをとったやつだ。みんなでつけてみるか。」
 四、五人であとをたどって行きました。
 道を横切り、畑をぬけ、あぜを伝わり、まだまだ続きます。やっと、こんもりしげったおく山の入り口でぷっつり消えました。
(だいじゃのしわざだ!)
 おたがい顔を見合わせました。おそろしさに声も出ず、一目散ににげ帰りました。
 それもそのはずです。むかしから、「おく山にはこわいだいじゃが住んどるだで、近づくでねえだ。」と、よく聞かされていたからです。
 だいじゃはその後も夜な夜な村に現れては、ほうぼうの作物をあらしまわりました。
「困ったもんよのう。どうかせにゃあ・・・・・。」
「わなをしかけてみるか。」
「そいつはむずかしいぞ。いっそ、おはらいをして、だいじゃをおっぱらったら。」
 村人たちはあれこれ言うものの、いざとなるとだれ一人、おく山へ出かけていく者はありません。いい案もなく、ほとほと困ってしまいました。
 うわさは少しはなれた山口村にも伝わり、その村に住む小太郎という若者の耳に入りました。小太郎は剣道の達人で、勇気あるさむらいでした。
「となり村の難ぎを見過ごすわけにはゆかぬ。よし、うでだめした。退治してみせようぞ。」
 さっそく、勇ましく一人で鹿川村にのりこんで来ました。
 村人に案内させて、山道をおくへおくへと登って行くと、向こうの木のしげみの中に、暗いへび穴の口が不気味に現れました。それを見て、村人はこしをぬかさんばかりにおどろいて、山を下りてしまいました。
 さて、一人残された小太郎は辺りを見回し、「さあ、来い!」と、しばらくへび穴をにらみつけていました。しかし、だいじゃは一向に出てくる気配もなく、しいんと静まりかえっています。ただ、辺り一面になんともいやな生ぐさいにおいがただよっていました。
(夜まで待とう。)
 低くつぶやくと、松の根元にどっかとこしを下ろし、うとうとねむり始めました。
 いつしか辺りは暗くなり、小太郎はふと草木のざわめきに目を覚ましました。
 刀のつかをにぎりしめ、暗やみにじっと目をこらしました。青白い光が左右にゆれながら、だんだん近づいてきます。
 さすがの小太郎も思わず生つばを飲みこみ、背すじに寒気を感じました。
(ついに来たな。目をねらえ。初めの一太刀(ひとたち)が勝負だ!)
 じりじりせまる二つの光を、息をひそめて待ち受けます。
「今だ!」
 光が穴から出たとたん、太刀を逆手に持ちかえて、全身をかけて、やあっと一つき。
 地鳴りのようなだいじゃのうめき、のたうちまわり、風を起こし、うずを巻き、そのすさまじさはあらしのようでした。
 地面にたたきつけられた小太郎は、ひるむもとなく起き上がりました。すかさず、刀をふりかざし、えいっとのどにとどめの一太刀。
 おびただしい血を流して力つきだいじゃは、ながながと大木のように横たわって、息絶えました。

 辺りは再び、静かなやみになりました。
 一夜あけて、村人たちは異様な生ぐささに気づきました。大勢して、おそるおそるおく山へ登って行きました。
 そこにはおそろしいほど大きなへびが横たわり、かたわらに血しぶきを浴びた小太郎が、いまだ悪夢から覚めない様子で、刀を持ったままぼんやりと立っていました。
 村人は大喜びして、小太郎にかけよりました。
 しかし、その日からだいじゃのしかばねの生ぐさいにおいが村中にただよいました。そのにおいは、七日七晩、鹿川の村の人々をなやませ続けました。
 その生ぐささがあまりにも強かったので、おく山辺りに「なまくさ」という地名がつけられました。



〔 解 説 〕

 幡豆町は、山が北風をさえぎっている温暖な地域で、山々がつくる大小の沢には、ほとんど絶えることのないわき水があります。こうした自然環境のためか、幡豆町には蛇にまつわる言い伝えが意外に多く、この本の中にも蛇の登場するものが四編収録されています。その代表格がこの「なまくさ」のお話です。
 鹿川の集落を通り抜けて、人家から一キロ余り蛇行する山道を登った所に、蛇岩(じゃいわ)といわれる大きな岩があります。古老は、その辺りが伝説の場所だと言います。急な山道の斜面に大きな岩があちこちに露出して、昼間もうす暗い山中は、ほんとうに「なまくさ」の世界にいるように感じられます。



29  三ヶ根観音
 奈良に大仏さまができたころのお話です。
 ある年の夏、大変暑い日がいく日も続きました。三河の海辺の村々に、悪い病気がはやり、大勢の人が死んだり、苦しんだりしていました。
 幡豆の海ぞいの欠村(かけむら)に、源三と言う漁師が住んでいました。六さいになる一人むすこの源吉が、昨日から高い熱を出してうなされていました。父親の源三は大変心配でした。井戸水で頭を冷やしたり、薬草をせんじて飲ませたり、いろいろ手当をするのですが、熱は少しも下がりません。
 源三の家と同じように、二けんはなれた向こうの家ではおかみさんが、裏の家では幼い女の子が、また、東の家ではおばあさんがといったように、あっちでも、こっちでも、はやり病で高い熱を出して苦しんでいました。
 ある夜、源三が何気なく外へ出ると、海の上のひとところが青白く光っていました。不思議に思って、次の朝、漁師仲間といっしょに、その辺りまで船をこぎ出しました。
 すると、そこには見たこともない大きな木が、波にただよっていました。
「光を出しとったのはこれじゃ。こいつは何ともうす気味悪い形だのう。」
「とにかく、岸へ上げてみようじゃねえか。」
 大木につなをしばりつけ、少しずつ船で岸の方へ寄せてきました。引き上げてみると、なるほど、見れば見るほどきみょうな形をしていました。根元はさけ、つき出た枝はとちゅうで折れ、刃物のようにぎらぎら光っています。そのうえ、幹はぼくぼくだらけでした。
「ひょっとして、こいつは疫病神(やくびょうがみ)かもしれん。はやり病をもたらした疫病神だ。」
「そうだ。こんなうす気味悪い形で、夜になると光るんじゃからのう。」
 そこで、この木は焼き捨ててしまおうということになりました。
 村人はまきを集めて山のように積みました。火がつけられ、まきはごうごうと音をたてて燃えました。
 しかし、どうしたことか、まきは全部燃えてしまったのに、この変な大木は、少しも燃えずに、元のままの姿で横たわっていました。
 村人は困ってしまって、その場にほうっておきました。

 ちょうどそのころ、一人の旅の坊さんがこの辺りを通りかかりました。この人は、行基(ぎょうき)さまという国中に名を知られたえらい坊さんでした。
 坊さんは不思議な大木の話を聞いて、欠の浜辺へやって来ました。そうして、木の前で手を合わせて静かにお経を唱え、終わると村人に話しかけました。
「これは尊いお方のたましいがやどっている木である。よって、海にほうっておいてはならぬぞ。はやり病もこの木を大切に祭れば治るじゃろう。わたしがこの木で、み仏をほってしんぜよう。」

坊さんはその日から、ほったて小屋にこもって、一心に観音さまの像をほり始めました。のみで一ほりするたびに、三回拝みます。坊さんは昼も夜もほり続け、少し横になったかと思うと、また、起きだしてのみをふるいました。
 みにくい大木は、一ほりごとに美しい観音さまの姿に変わっていきました。
 とうとう、でき上がりました。それはみごとな観音さまでした。
 三河の国をずっと見わたして、人々の苦しみや悩みをお救いくださるようにと願いをこめ、この辺りで一番高い三ヶ根山の頂上に祭りました。
  大勢の人々が苦しんだはやり病も、みるみる少なくなっていきました。
 これも観音さまのおかげと、口から口へと伝わって、あちこちから、たくさんの人たちが三ヶ根観音にお参りするようになりました。そして、頂上を目指して登る道が七つもできたということです。
 その信者の中に、あせをふきふき、元気に登って行く源三親子の姿がありました。



〔 解 説 〕

 
三ヶ根観音は標高330メートルの三ヶ根山のほぼ山頂にあって、正しくは寒峯山観音寺といいます。もともとは修験者が修行する場所であったといわれ、御縁起によれば神亀元年(724)の創建で、幡豆町では最古の寺になります。
 御本尊の聖観音菩薩立像(木像、高さ約140センチメートル)は、行基の一刀三礼の作といわれ、小野ヶ谷龍蔵院の観音像(坐像、高さ約95センチメートル)と同木で造られた伝えられています。
 三ヶ根観音は、三河一帯に名が知られ、参詣者も多く、かつては歩きの登山口が七か所ありました。戦後は、三ヶ根山が観光地として開発され、自動車道路の開通にともなって、さらに、多くの人が訪れるようになりました。



30  源平さきわけの椿
 むかし、源氏と平氏は長い間、争いを続けていました。源氏は白い旗を、平氏は赤い旗をおし立てて戦いました。
 ある時、源氏は都のいくさで負けて、家来はちりぢりになりました。
 幡豆の五郎も、その中の一人で都からにげ帰ってきました。何日も何日もかかってやっと幡豆にたどり着いたのですが、まだ敵が追いかけてくるような気がして、山のおくへおくへと入って行きました。
 ついに、三ヶ根観音のお堂の所まで登って来ました。お堂の中には、白い着物を着て修行する人たちが大勢いました。
 五郎もその中に入って、いっしょに修行に加わりました。
「観音さま、どうかもう一度、源氏の勢いが強くなりますように・・・・・。」
 五郎は修行の合間に一心に手を合わせ、源氏再興を心の内で唱えました。
 ある夜、五郎は夢の中で、美しい観音さまのお姿を見ました。
「五郎よ、庭に一本の椿を植えなさい。そして、その椿に白い花がさくように祈りなさい。白い花がさけば源氏が勝ちます。もし、赤い花ならば平氏が勝つでしょう。」
 さっそく、夢のおつげのとおり、五郎は境内に一本の椿を植えました。椿の木は、春が来るたびに大きくなっていきました。

それから何年もの月日がたちました。
 ある冬のこと、椿はいくつものつぼみをつけました。
(どうか、白い花がさきますように・・・・・。)
 五郎は、いっそう熱心に祈りました。
 ようやく、冬が終わろうとした時、花が一つさきました。赤い花でした。
 五郎はがっくりしました。
 次の一輪がさきました。今度は白い花でした。そして次に赤い花が、次にまた、白い花が・・・・・。赤い花が三つさき終ると、それからどのつぼみもみんな白い花になりました。赤い花は三つ、白い花は七つさきました。
 五郎はとび上がるほど喜びました。
「おお、今こそ、源氏が勢いをもり返す時がきたぞ。白い椿の花は、そのおつげにちがいない。早く、頼朝さまに申し上げよう。」

 ちょうどそのころ、源氏のかしら、頼朝が平氏をたおすために、伊豆で旗上げをしたという知らせを受けました。
 五郎は伊豆に向かって走り、いく日もかけて、やっと頼朝の元へたどり着きました。
「そうか、椿の話は何よりえんぎのよい知らせじゃ。ありがたく思うぞ。何やら、勇気がわいてくるぞよ。」
 頼朝は手を打って喜びました。
 それからというもの、源氏の勢力はどんどん増していきました。
 平氏はいくさに負けて、西の方へ西の方へと、しだいに追いやられ、やがてほろびてしまいました。
 戦いが終わった時、頼朝は五郎に言いました。
「わしはな、そちの白い椿の花の知らせで、大いに力がわいてきたのじゃ。おかげでいくさに勝つことができた。五郎よ!そちは三河に帰って、わしにとっても大切な椿を後々まで守ってくれ。」
 五郎はその言葉どおり、幡豆の地にもどり、三ヶ根山に住んで椿の木を守って暮らしました。

 その椿は、今なお赤い花を三分、白い花を七分に咲かせて、「源平さきわけの椿」と言われています。




〔 解 説 〕

 
三ヶ根観音の境内中央に一本の木があります。「源平さきわけの椿」といわれ、根元の周りが1メートル50センチメートル・直径がほぼ50センチメートルもあるところからかなりの樹齢と思われますが、今も赤と白の花をつけます。
 このお話は、源平の合戦(保元・平治の乱〈1156〜1159〉及び治承―寿永年間〈1177〜1185〉の合戦など一連の戦い)のころです。京都を中心とした近畿、鎌倉を中心とした関東、その他各地で源氏と平家の戦いが続き、初め優勢だった平家は後に敗れて屋島・壇ノ浦の戦いで滅亡します。
 それを占ったといわれるさき分けの椿は、今も白三分の二。赤三分の一と白が優勢のまま毎年花を咲かせています。
 なお、三ヶ根観音は鎌倉時代に、源氏の武者の参詣がたえなかったといわれ、境内にはその時代のものと思われる墓もあります。