- 三ヶ根観音 -

 
 

奈良に大仏さまができたころのお話です。
 ある年の夏、大変暑い日がいく日も続きました。三河の海辺の村々に、悪い病気がはやり、大勢の人が死んだり、苦しんだりしていました。
幡豆の海ぞいの欠(かけ)村に、源三(げんぞう)言う猟師が住んでいました。六さいになる一人むすこの源吉が、昨日から高い熱を出してうなされていました。父親の源三は大変心配でした。井戸水で頭を冷やしたり、薬草をせんじて飲ませたり、いろいろ手当てをするのですが、熱は少しも下がりません。
源三の家と同じように、二けんはなれた向こうの家ではおかみさんが、裏の家では幼い女の子が、また、東の家ではおばあさんがといったように、あっちでも こっちでも、はやり病で高い熱を出して苦しんでいました。
ある夜、源三が何気なく外へ出ると、海の上のひとところが青白く光っていました。
不思議に思って、次の朝、漁師仲間といっしょに、その辺りまで船をこぎ出しました。
すると、そこには見たこともない大きな木が、波にただよっていました。
「光を出しとったのはこれじゃ。こいつは何ともうす気味悪い形だのう。」
「とにかく、岸へ上げてみようじゃねえか。」
大木につなをしばりつけ、少しずつ船で岸の方へ寄せてきました。引き上げてみると、なるほど、見れば見るはどきみょうな形をしていました。根元はさけ、つき出た枝はとちゅうで折れ、刃物のようにぎらぎら光っています。そのうえ、幹はぼくぼくだらけでした。
「ひょっとして、こいつ疫病神(やくびょうがみ)もしれん。はやり病をもたらした疫病神だ。」
「そうだ。こんなうす気味悪い形で、夜になると光るんじゃからのう。」
そこで、この木は焼き捨ててしまおうということになりました。
村人はまきを集めて山のように積みました。火がつけられ、まきはごうごうと音をたてて燃えました。
しかし、どうしたことか、まきは全部燃えてしまったのに、この変な大木は、少しも燃えずに、元のままの姿で横たわっていました。
村人は困ってしまって、その場にほうっておきました。

ちょうどそのころ、一人の旅の坊さんがこの辺りを通りかかりました。この人は、行基(ぎょうき)さまという国中に名を知られたえらい坊さんでした。
坊さんは不思議な大木の話を聞いて、欠の浜辺へやって来ました。そうして、木の前で手を合わせて静かにお経を唱え、終わると村人に話しかけました。
「これは尊いお方のたましいがやどっている木である。よって、海にはうっておいてはならぬぞ。はやり病もこの木を大切に祭れば治るじゃろう。わたしがこの木で、み仏をほってしんぜよう。」
坊さんはその日から、ほったて小屋にこもって、一心に観音さまの像をほり始めました。
のみで一ほりするたびに、三回拝みます。坊さんは昼も夜もほり続け、
少し横になったかと思うと、また、起き出してのみをふるいました。
みにくい大木は、一ほりごとに美しい観音さまの姿に変わっていきました。
とうとう、でき上がりました。それはみごとな観音さまでした。
三河の国をずっと見わたして、人々の苦しみや悩みをお救いくださるようにと願いをこめ、
この辺りで一番高い三ヶ根山の頂上に祭りました。
大勢の人々が苦しんだはやり病も、みるみる少なくなっていきました。
これも観音さまのおかげと、口から口へと伝わって、あちこちから、たくさんの人たちが三ヶ根観音にお参りするようになりました。そして、頂上を目指して登る道が七つもできたということです。
その信者の中に、あせをふきふき、元気に登って行く源三親子の姿がありました。


〔 解 説 〕

三ヶ根観音は標高三三〇メートルの三ケ根山のほぼ山頂にあって、正しくは寒峯山観音寺といいます。もともとは修験者が修行する場所であったといわれ、御縁起によれば神亀元年(七二四)の創建で、
幡豆町では最古の寺になります。御本尊の聖観音菩薩立像(木像、高さ約一四〇センチメートル)は、行基の一刀三礼の作といわれ、小野ケ谷龍蔵院の観音像(坐像、高さ約九五センチメートル)と
同木で造られたと伝えられています。三ヶ根観音は、三河一帯に名が知られ、参詣者も多く、かつては、歩きの登山口が七か所ありました。戦後は、三ヶ根山が観光地として開発され、自動車道路の開通にともなって、さらに、多くの人が訪れるようになりました。