走り付けの戦い

 永禄(一五五八〜七〇)のころ、松平元康(徳川家康)は三河の統一にのり出しました。岡崎、安城、西尾へと勢力を広げ、しだいに幡豆の地へもせめて来る勢いです。
 ある日、寺部城のまわりがにわかにそうぞうしくなりました。鎧を着けた武士たちが走り回り、農民が大勢狩り集められました。戦の陣地づくりです。
 寺部城内でもあわただしく人が動いています。
 城では、城主小笠原広重と、欠城主小笠原安元との間で、内密の相談が続いていました。
「いかなるものかな。やはり戦うより仕方あるまい。吉良殿には恩義がある。吉良方の苦しい戦いを見て、松平につくわけにはいくまいぞ」
 安元の強い言葉に、広重はうなずきながらも口ごもりました。
「しかし、とうてい勝ち目のない戦いですぞ。わたしは……、どうも……」
「広重殿の気持ちはわかりますぞ。できることなら戦いとうない。だが、今の立場では、いずれ一戦交えねばなるまい」
 うで組みをしたまま、安元はじっと目を閉じていました。
 やがて、顔を上げると、
「鉄砲だ、鉄砲を使うのだ」
と、力強い声で言いました。
 海に面し、海路にもくわしい小笠原一族は、そのころ、すでに鉄砲を手に入れていました。しかし、わずかな鉄砲では、決して戦力になりません。それでも、安元は鉄砲を使うことにかけたのです。

 数日後のことです。
 夜明け前の波静かな走り付けの浜に、船が次つぎにおし寄せて来ました。
 松平軍です。
 大勢の武士たちは列をつくると、寺部城へ通じる間道へとせまって来ました。
 小笠原軍の陣地は、間道をねらい撃ちできる小高い所にありました。安元はそこから、松平軍の動きをじっと見ていました。
「火なわの用意はいいか」
「はっ、万事ぬかりなく」
「よし、合図したら撃て。いいか、空に向かって撃てばよいぞ」
「はあ?空に」
 家来たちは訳もわからず、言われたとおり、空に向かって鉄砲をかまえました。
 安元の合図の手が上がりました。
 ズドーン!ズドーン!
 山をゆさぶるようなすさまじい音でした。この轟音におどろいた山の鳥たちが、けたたましい鳴き声とともに、いっせいに飛び立ちました。
 そのものすごさに不意をつかれ、松平軍の動きが止まりました。

 しかし、しばらくするとまた、じりじりと小笠原軍の陣地の下にせまって来ます。 再び、安元の手が上がりました。
 今度は石ぜめです。次から次へと、たくさんの石が投げ落とされました。大きく列のくずれた松平軍は、それでも弓矢で反撃を始めました。両方の矢が入り乱れて、飛びかいます。
 ここぞと安元は、力いっぱい、三度目の合図をしました。
 ズドーン、ズドーン、ズドドーン!
 地をさく音が、再び走り付けの山にとどろきました。
 いっしゅん、静まり返った松平軍は、動く気配がありません。

(まだまだ、油断できないぞ)
 安元はじっと敵の動きを見守りました。
 ところが、松平軍が少しずつ後退を始めたのです。そして、再び立ち向かうことなく、船に乗りこんで行きました。
 ほっとした安元は、遠ざかって行く松平軍を見ながら言いました。
「これで、吉良殿への面目が立ったぞ」

 走り付けの戦いは、松平軍にとっては小さな戦いでも、小笠原一族にとっては、鉄砲に命運をかけた大きな戦いでした。


〔 解 説 〕

 走り付けの戦いについて資料はほとんどないが、言い伝えがいくつか残っている。その一つに、幡豆小笠原氏は鉄砲を使ったといわれている。
 その鉄砲の轟音に驚いた山の鳥たちがいっせいに飛び立ち、その羽音が山やまに轟いたという。その辺りは昭和の始めごろまで、通称で轟(とどろ)と呼ばれていた。また、別の山間部に同じく轟と呼ばれる所がある。そこは、鉄砲の試射場だったという。
 種子島に鉄砲が伝来されたのは、天文十二年(一五四三)である。走り付けの戦いを永禄四年(一五六一)と推定すれば、その間二十年足らずである。
 しかし、幡豆には海があり、小笠原氏が航海術を知っていたことを思えばあり得ないことではない。


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