観海さんと盆踊り

 今から百年ほど前のことです。
 永良村(西尾市)から、五才くらいのいたずらっ子が、もっこに乗せられて形原の真如寺へ連れてこられました。子だくさんの農家から、口減らしのためお寺へ小僧として奉公に出されたのでした。
 やがてこの男の子が成長し、洲崎の真相院に新しい住職としてやって来ました。
「今度のおっさん、えらく若えが、満足なおつとめができるかのう」
「どう見ても、おっさんらしくねえもんなあ」
 村の人たちは、たよりないおしょうさんのことを心配しては、うわさしていました。 いたずらっ子だった観海さんは、おしょうになっても遊び好きが直らず、村の若者を寺に集めては、飲めや歌えの毎日でした。
 困った村人は、寺の世話方をしている善五郎さんの所へ相談に行きました。
「夜は若いもんとさわぎまくり、朝はいつまでもねておって、おつとめにおくれたことも二度や三度じゃあねえ。これじゃあ先が思いやられてのう」
 善五郎さんも見かねていたので、さっそくお寺に行きました。
「のう、観海さん。遊ぶもいい。さわぐもいい。だが、おっさんのつとめだけは、しっかりやらにゃあいかん。村の者も心配しとるで」
 善五郎さんのやさしくさとす言葉を、観海さんはだまって聞いていました。

 そのころ、洲崎の村では、船付と呼ばれる岩場から、何人もの人が落ちて大けがをしたり、死んでしまうという災いが続きました。
「同じ場所で、こう何人も災難にあうのは、何かのたたりじゃあねえか」
「どうだえ。おっさんにご祈とうしてもらっちゃあ」
 村人は連れ立って、真相院に行きました。
 ところが、観海さんの姿はなく、夜になっても帰って来ませんでした。
 腹を立てた村人は、善五郎さんの家にやって来ました。
「もう、かんべんできねえ。あんなおっさんじゃあ何の役にも立たん。新しいおっさんに来てもらったらどうだえ」
「そうともよ。おっさんはほかにいくらでもおいでるだ」
 かんかんにおこった村人に、善五郎さんは頭を下げてたのみました。
「わしが話してみる。もういっぺんだけ目をつぶってくれんか」
 その夜おそく、善五郎さんは、寺へと急ぎました。あいにく月がかくれて、辺りは真っ暗でした。昨日まで続いた長雨のせいで足元が悪かったために、善五郎さんは、崖から足をすべらせてしまいました。
 村人たちは、寺に行ったはずの善五郎さんが、いつまでたっても帰ってこないのであちこち探し回りました。
 明け方になって、冷たくなった善五郎さんが見つかり、村じゅう大さわぎになりました。遊びから帰ってこのことを聞いた観海さんは、それが自分のせいであったと知って、寺のおくにかくれておいおいと泣きました。
 その日から、観海さんの遊ぶ姿を見かけなくなりました。
 村境の多度山にこもって二十一日間のつらい修行を始めたのです。昼も夜も一心に唱える念仏や打ち鳴らす鐘の音は、村人の心を強く打ちました。

 修行を終えた観海さんは、まるで別人のようになって寺に帰って来ました。村の若者に仏の心を教えました。お盆にはなくなった人たちへの供養として、新仏のある家を回って、夜どおし歌い踊るのでした。
「善五郎さんも、これでやっと成仏できるというもんじゃ」
「よかった。よかった」
 若者たちの輪に入って踊っている観海さんを、村人は目を細めて見ていました。

  *もっこ ……… なわをあみのように編んで、四すみにつなをつけ、土などを          運ぶ道具。
  *口減らし……… 家計が苦しいので、奉公に出すなどして、養う家族の人数を          減らすこと。


〔 解 説 〕

 洲崎の盆踊りの伝統は古く、江戸時代初めごろまでさかのぼり、一時途絶えて、慶応四年(明治元年)、観海おしょうによって再興された。
 その当時は、頭に手ぬぐいをかぶり、白い袋を背負って、踊りながら家いえを回っては野菜やだんごをもらったという。中には化粧する男もいて、踊りをおもしろくしたという。
 戦時中は忘れられていたが、戦後いち早く復活して各地の大会にも参加し、昭和三十二年には三河地区郷土盆踊大会で、堂どうの一位を獲得している。


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