弘法山と穴弘法

 明治の中ごろのことです。
 幡豆村に年老いた母親とさよという名のむすめが住んでいました。
 さよの母親は、とても信心深い人でした。とりわけ見影山の弘法さんを敬い、毎日欠かさずお参りしていました。

「おさよや、四国にゃ、八十八ものお寺があってな、いろんなお姿の弘法さんがおいでるげな」
「おっかさん、そんなとこがあるなら、お参りに行ったらどうだえ」
「そんなことができるわけがねえ。四国は行くだけで何日もかかるし、金もいるし。おらがのような貧乏人には、行ける所じゃあねえ」
 母親に、四国霊場八十八札所のことを得意になって話していったのは、太兵衛さんでした。太兵衛さんは村でも指折りのお金持ちです。
 母親はため息まじりに言いました。
「いいのう、太兵衛さんは。来年も行かっしゃるげな。わしゃ、一生かかっても行けんもんなあ……」
 さよは、母親がかわいそうになり、いろいろ知恵をしぼりました。
「いいことがあるだ。おっかさん、来年を楽しみに待っていておくれ」

 翌年、さよは、四国めぐりに出かける太兵衛さんの所へ行ってたのみました。
「お願いです。お参りする八十八か所のお寺の砂を、ちょっとずつ持って来ておくれんかねえ」
「そりゃ、大変なことだぞ。何でだ」
「その砂をおっかさんにふませてあげたら、四国にお参りした気になって喜ぶと思うだ」
 さよの願いに感心して、太兵衛さんは引き受けてくれました。
 四国に着くと、寺にお参りするたびに少しずつ砂をもらって、とうとう、八十八全部の袋に砂をつめました。
 太兵衛さんは持ち帰るとすぐ、見影山の弘法さんの前に置きました。
 さよ親子はなみだを流して喜びました。
「おさよや、ありがたいのう、ほんにありがたいことだのう」
と、手を合わせ、一つ、また一つと砂をふんで拝んで行きました。
「これで八十八じゃ、四国霊場をみんなお参りできたというもんじゃ。うれしいのう」
 八十八か所のお砂ふみは、村の人たちの間にも広がり、見影山の弘法堂はお参りの人が絶えないほどでした。
 これを見て、太兵衛さんは考えました。
(うーむ、わしが砂を持って来ただけで、みんながこんなに喜んでくれるとは……。砂でなくて、弘法さんを八十八体祭ったら、村の衆はもっと喜ぶことだろう)
 しばらくして、村の一けん一けんを回る太兵衛さんの姿が見られました。
「のう、あの山にみんなで一つずつ弘法さんをつくって、八十八か所に祭ってあげれんもんかのう」
 根気よく、弘法さんの石仏を寄付してくれるようたのんで歩きました。

 やがて、見影山のふもとから頂上に向かって、一つ、二つと穴がほられて、小さな弘法さんが納められていきました。そして、ついに八十八体がそろいました。
 人びとは「穴弘法さん」と呼び、見影山は「弘法山」といわれるようになりました。


〔 解 説 〕

 江戸時代の末期から明治にかけて、一般庶民の神仏への信仰が、いろいろな形で花開いた。この話の穴弘法さんも明治二十年代のことである。生活にゆとりのできた商家や地主は、四国八十八か所などの霊場巡りができたが、多くの庶民はとても望めなかった。その信仰心を身近な所で満たしてくれるものとして、山を登りながら八十八体の弘法さんにお参りしたのだろう。
 なお、二体の弘法さんは、本堂の中に祭られ、三体目以後のものが穴弘法として山に祭られている。


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