長坂の弘法さん

 鳥羽の林に、吉五郎夫婦と、二人のむすめが住んでいました。姉はおみつ、妹はおきよといいました。
 五月になると、蚕の世話から田植えのしたく、畑仕事と、それはそれは忙しい日が続き、朝から晩まで、家じゅう働きどおしでした。
 そんな忙しさが、一息ついたころのことです。
 姉のおみつがいつもとちがい、元気がありません。
「まあ、つかれが出たんじゃろう。おみつ、ゆっくり休めや」
 夫婦は、むすめをいたわり、それほど気にとめませんでした。ところが、おみつは十日たっても、ひと月たっても良くならず、とうとうねこんでしまいました。
「いつになったら、おみつは治るのかなあ」
「姉ちゃん、かわいそう」
 医者にみせてもよくならず、母親とおきよは、代わるがわるねないで看病していました。
 ある日、吉五郎は、家をぬけ出しました。
「あの子の顔を見ているのが、つらくてたまらん」
 そんなことを思いながら歩いていると、
「ちょっとおたずねします。津平へ行くには、この道でよろしいですか」
 旅の尼さんが声をかけました。背中には大きな荷を背負って、ハアハア息をきらしています。
「ああ、この道でいいぜ。けど津平まではまんだ遠いし、そんな大きな荷じゃあ大変だ。うちでちょっと休んでいかっせ」
「それは助かります」
「あいにくむすめが病気で、何もできんが、さあ、さあ」
 家に上がった尼さんは、弱りきったむすめを見て、おかみさんに言いました。
「病が重そうですね」
「もうふた月もねこんどるだ。今じゃ、おかゆも食べれんし、水しか飲めんだ」
 おかみさんは、なみだながらに話しました。
「わたしは弘法さんを背負って諸国を旅していますが、別に急ぐわけでもありません。むすめさんが良くなるよう、弘法さんにご祈とうしてみましょう」
 夫婦は思いがけない尼さんの言葉に、すがる思いでした。
 尼さんは、吉五郎の家から半里(約二キロメートル)ほど山おくに入った、長坂の山に穴をほり、弘法さんを祭りました。そして、夜となく昼となく、一心にご祈とうしました。吉五郎夫婦とおきよも、人里はなれた長坂まで毎日せっせと通って、弘法さんにお願いしました。
「ほんにありがてえこった」
「だけど尼さん、あんまりねとらんようだが、いいかのう」
「ほだなあ、あんな穴ぐらじゃあ、ねようったってねられんわなあ」
 夫婦は尼さんの体も、心配になってきました。

 祈とうをはじめて七日目、とつぜん、おみつがおかゆを食べ始めました。それからは、日に日に回復して、半月ほどすると、母親のかたにとまって歩けるようになりました。
 そして、間もなく、一人で弘法さんにお参りができるほど良くなりました。
 おみつや尼さんの話は村じゅうに広がり、お参りする人が増えてきました。
「なあ、みんな、弘法さんや尼さんが、あのままじゃあ気の毒だ。何とかしてあげてえのう」
 村の寄り合いで話がまとまって、長坂の山のふもとに、お堂が建てられました。


〔 解 説 〕

 長坂は地名で、鳥羽の東側の山すそを奥に入った所にある。かつては人家から少しはなれた山のひだに、お話の弘法堂があった。
 この話は、明治に入ってからのことと思われる。一時は、多くの信者によって、裏山の登り道に八十八か所の穴弘法もつくられたという。
 三代目の住職の後、無住になり、近くのお年寄りが世話をされていたが、昭和の終わりごろ、お堂はとりこわされ、八十八体の石仏だけが名残をとどめて、今も祭られている。


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