大峯山参り

 門内村の権三の家は、代だい続いた大百姓で、何不自由なく暮らしていました。ただ、むすこの太助がなまけ者で、それにはほとほと手を焼いていました。
 ある日、権三が山畑から、顔を真っ赤にして、すごい勢いで帰って来ました。
「おい、太助はおるか、太助は!」
 おかみさんのうめは、またかという顔で答えました。
「何だね、大きな声で、みっともねえ。今朝あんたにおどされて、山畑へ行ったがね」「そいだで、一人じゃえれえと思って行ってみたら、なんのこたあねえ、くわをほったらかして、どこにもおやがらん」
「ほんなら、また、ばくちでもやりに行ったかえ」
「しょうがねえやつだ」
 権三は腹が立つやら、がっかりするやらで、寺のおしょうさんにぐちをこぼしに行きました。
「このままじゃ、ろくなもんにならん。あいつの性根を入れかえるいい手だてはねえだろうか」
「太助も、もう十五じゃろ。むかしなら元服の年じゃ。どうだ、大峯山参りは……」「とんでもねえ。あんなつれえ修行は、どだい無理でさあ」
 権三はそうは言ったものの、ひょっとしたらいい薬になるかもしれないと、相談の末、太助を大峯山に行かせることにしました。

 桜のつぼみがふくらむころ、村人に信らいのあつい作右衛門さんが先達で、十六人の一行が吉野(奈良県)の大峯山をめざして、山岳修行に出発しました。
 一日十里(約四十キロメートル)の道のりを歩き、山の行場に十日もこもるこの修行は、よほどの決心がないと勤まりません。
 太助は、というと、
「おおい、水をくれえ」「おらあ、腹減った」「足の豆が痛くて歩けん」など、文句ばかり言っていました。一日目にして、もう仲間に見放され、どんどんおいていかれました。
「けっ、勝手にしやがれ」とわめくものの、引き返すわけにはいかず、気づいた時には一行の姿は見えなくなっていました。
 日が暮れるとさすがの太助も心細くなってきました。足はくたくた、腹は減る、だれもいない。少しずつ後悔し始めて、むしょうに、おっかさんの顔がこいしくなりました。
 と、その時です。暗やみの中からとつぜん、
「太助や、待っていたぞ」
 先達さんの声がしました。ほっとしてかけよったとたん、なみだがこぼれてきました。

 次の日から、太助は人が変わったように真剣になりました。
 いくつもの山をこえ、谷を下り、尾根をつたい、やっとのことで大峯山に着いた時は、今にもたおれそうにへとへとでした。
 ところがです。休む間もなく、夜どおしご祈とうする『おこもり』が始まりました。終わるとまた、暗いうちに次の行場へ急ぎます。修行の連続で十日が過ぎました。
 いよいよ最後の荒行です。
 一行が連れて行かれた所は『東ののぞき』といわれる断崖絶壁でした。
 太助はされるままに、かたからつなをかけられると、体ごと崖っぷちにつき出されました。今にも谷底に落ちそうで、目がくらみます。
「助けてくれえ!」
 悲鳴をあげ、思わずもがくと、真っ逆さまに吸いこまれていきそうです。
「あっ」と、目をつぶったとたん、
「太助!性根を入れかえて仕事にはげむか!」
 キリッとした先達さんの声が後ろから聞こえました。
 体が引きつって声も出ません。すると、ズルズルとさらにつながゆるめられました。「仕事にはげむか!」また、先達さんの声です。
「は、はい。ちかいます」
 太助は、腹からしぼり出すような声で答えました。
 これで終わりではありませんでした。
 「親孝行するか!」でズルズル、「かけ事をやめるか!」でズルズル。そのたびに、冷やあせぐっしょりです。
 太助だけでなく、一行の若者たちも次つぎとざんげをし、ちかいを立て、荒行を何とか無事にすませました。
 修行は思い出しても身ぶるいするほどのつらいものでしたが、太助の心は成しとげた喜びでいっぱいでした。

  *ばくち ……… さいころの目の出方によって、お金をかけて勝負すること。  *元服  ……… 12〜16才ごろまでに、公家や武家が行った男子の成人式。
  *先達  ……… 修行のため、山に入る時の案内人。
  *行場  ……… 仏の教えを学ぶために修行する場所。
  *ざんげ ……… 自分のつみやあやまちを、神仏などにうちあけて、許しを願          うこと。


〔 解 説 〕

 大峯山は奈良県吉野郡にあり、海抜一、七〇〇メートルの山頂には、大峯山寺がある。
 むかしから修行の場として知られ、「東ののぞき」の行場では、絶壁の上でざんげし、誓いを立てたという。 この地方では、大峯山参りは、若者が一人前になるための修行として、明治から昭和の初めごろまで行われていた。


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