鳥羽のお姫さま
       (夜泣き止めの姫)

 江戸時代なかばのことです。二人のさむらいが鳥羽村の庄屋、治郎左エ門をたずねて来ました。
「これは、これは、あの時のご用人さまでは……」
 治郎左エ門の屋敷は、今の姫山にありました。海を見下ろすながめのよい所だったので、旅人が立ち寄ることもしばしばありました。そのさむらいも、ある藩のご用人で、以前ここへ来たことがありました。
「おお、覚えておってくれたか」
「ええ、ええ、覚えていますとも。いつぞや、あや姫さまとお立ち寄りになって……」「そう、そのあや姫さまじゃが、今ご病身で、いや、どこが悪いというのではないが、ねたり起きたりの毎日で……」
 二人のさむらいは、あや姫のことや殿さまの心配を代わるがわる話しました。
「そこで、治郎左エ門、姫をしばらくあずかってはもらえまいか。姫が好きな海を見ながら、しばらくここで暮らしたらという殿のお心づかいじゃ。おたのみ申す」
 何度も頭を下げられて、治郎左エ門も断ることができませんでした。
 こうして、姫をむかえたその日、むすこ夫婦と生まれて間もない赤ん坊と、家じゅうがそろったのを見て、治郎左エ門は言いました。
「あや姫さま、今日からこの家のひとりとして、どうか気楽にお暮らしください。わたしどもも心づかいはいたしません。むすめと思ってあやと呼ばせていただきます」 それから、なごやかな話が続きましたが、しばらくしてよめにだかれていた赤ん坊が泣き出しました。
「まあ、かわいい赤ちゃんだこと。わたくしにもだかせてくださいな」
 そう言って赤ん坊を両うでに受け取ると、静かにゆすりながら子もり歌を歌い始めました。聞き取れないほどの声でしたが、赤ん坊はいつの間にか、すやすやとねむっていました。
「へえー。その子は泣き虫で、夜中にも泣き出すので家じゅう困っていますだ」
 むすこの源治郎がおどろいた様子で言うと、姫はにっこり笑って言いました。
「わたくしは、赤ちゃんが大好きです。困った時にはあやしてあげましょう」
 姫の言葉は本当でした。夜中に泣き声が聞こえると、姫が行ってはだき上げました。すると不思議に、赤ん坊は子もり歌を聞きながらねむってしまうのでした。
 この話が近所に伝わり、やがてうわさになって、夜泣きで困った人が赤ん坊を連れて来ることもたびたびありました。姫も赤ん坊をだいている時は、顔をかがやかせて本当にしあわせそうでした。
 姫は、遠い親せきのむすめということになっていて、身分を人に話すことはありませんでしたが、村人の間では、だれ言うとなく『夜泣き止めの姫』と、ささやかれるようになりました。
 こうして、人びとに深くなじむようになり、子どもやお年寄りにもやさしく話相手になって世話をするので、だれからもしたわれるようになりました。
 そのころには、すっかり姫は元気をとりもどして、あの弱よわしいおもかげはありませんでした。
 治郎左エ門も「この分なら、お城へ帰って、もとのあや姫さまとして暮らしてもらってもよかろう」と思っていましたが、しあわせそうな姫を見ていると、言い出せないまま月日が過ぎていきました。

       姫の恋

 ある日のこと、姫が庭先に出て、静かな小春日和の海を見ていると、三人の旅の坊さんが下の道を歩いて来ました。やがて姫に気づいた坊さんは、
「美しいながめですね。わたくしどもは、江戸へ行く途中ですが、三河の海が見たくて立ち寄りました。ここで少し休ませてください」
そう言いながら、近づいて来ました。
 姫が、茶を持って来て、差し出しながらたずねると、
「わたくしは京都から来ました。こうして、旅をしながら和歌を詠むのが何よりの楽しみです」
 笑顔を見せた坊さんは、まだ若く、どこか上品な顔立ちでした。しかし、身分は明かさず、ただ「わたくしの名は、常仁です」とだけ言いました。
 それから、旅の事、歌の事で二人の話はつきることがありませんでした。
「わたくし、『わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらねかわくまもなし』の歌が好きでございます」
「ああ、二条院讃岐のさびしい恋の歌ですね」
「この海の沖にもそんな石がございます。人びとが『悪なみ』といっておそれています」
 話がいつまでも続いて、もう日が西にかたむきかけていました。供の坊さんが心配そうに言いました。
「親王さま、岡崎までまだ遠ございます。そろそろ出立いたしましょうか」
「やはり親王さまでございましたか」
 姫の言葉には答えず、常仁親王は供の坊さんに、
「急ぐ旅ではない。ここに一夜の宿を乞うてもよいではないか」
と、たわむれとも思われることを言うのでした。
 しかし、使いから帰った治郎左エ門が、話を聞いて「ぜひともおとまりください」と言うので、坊さんの一行は、本当にとまることになりました。
 あくる朝、坊さんたちが、早ばやと旅じたくをして庭先に出ると、治郎左エ門たちも見送りに出て来ました。親王はていねいにお礼を言うと姫の方を見て、
「そなたは、この土地のむすめさんではないでしょう。どこぞの大名の姫君かな……」 いたずらっぽく笑いながら言いましたが、姫はだまって、いつもの笑顔を向けるだけでした。
「そうそう、わたくしは来年の三月には京へ帰ります。その時きっと、ここに立ち寄ります。会える日を楽しみにしています」
 親王は、そう言い残して足ばやに立ち去って行きました。

 月日はながれ、その冬のことです。寒い日が続き、この辺りではめずらしく足がしずむほど雪が積もりました。
 雪の後、姫はかぜがもとで重い病気にかかり、治郎左エ門たちの看病のかいもなくこの世を去ってしまいました。
 治郎左エ門と村人は、海のよく見える小高い所に、形ばかりの祠を造って姫を祭りました。

 それから、また月日がたち、年が明けて三月、山桜が鳥羽の山にもさき始めました。 約束どおり常仁親王の一行は、再び治郎左エ門の家に立ち寄りました。治郎左エ門は、姫の身分を明かし、小さな祠の前に案内しました。
「姫はここにねむっておられます。それから、親王さまにと、これを預かりました」 治郎左エ門は、折りたたんだ一枚の紙を差し出しました。
 そこには、「お会いできて姫はしあわせでした。常仁さま、ありがとうございました」という姫の言葉と、二条院讃岐の『わが袖は……』の歌が書きそえてありました。 親王は、しばらく目を閉じていましたが、やがて、一枚の紙を取り出しました。
 書き慣れた文字で、和歌が三首書いてありました。一首は海辺近くの夕暮れの歌、もう一つは降りしきる雪の歌、そうしてもう一首、半分だけの歌がありました。
「恋と題していますね、『いつとなく 種まきそめて』これは上の句だけでしょうか。下の句がありませんが……」
 治郎左エ門が不思議そうにたずねると、
「その後は姫に書き加えてもらいたかったのですが、今はいたし方のないことです。そのまま祠にお納めください。それから、江戸のみやげにと思ったのですが、これもいっしょに納めてください」
 治郎左エ門が受け取った小さな箱の中には、かんざしが入っていました。春の日ざしに、きらきらとかがやいていました。

  *用人 ……… 江戸時代、大名・旗本の家で、家老の次に位した人。
  *親王 ……… 律令制で、天皇の兄弟・皇子。


〔 解 説 〕

 鳥羽の姫山に「姫大明神」を祭った小さな社がある。通称「お姫さん」といって、昭和の中ごろまでは、子どもの夜泣き止めの神さまとしてお参りする人が多かった。これは、そのお姫さんの話で、言い伝えのほかに、次の資料をもとにしたものである。
 一、棟札三枚のうち最も古いもの(寛政十一年)。二、ご神体として納められている女性の像(土びな)。三、古いかんざし(和紙に包んで納められている)。四、和歌を記した和紙(A3ほどの大きさ)。五、二条院讃岐の「わが袖は……」の歌を記した木の額縁。 このうち、四だけは深谷治郎さん(故人)宅で、代だい家宝として保管しておられる。あとの四点は、社に納められている。
 四の和歌には、『常仁』と作者名が入っているが、江戸時代の皇族とすれば、常仁親王は一人だけで、霊元天皇の孫に当たる方である。出家して天台座主になっておられるので、正しくは「常仁法親王」である。明和九年に十七才の若さで亡くなられている。
 明和九年から寛政十一年(姫大明神の社が建立された年)まで三十年近くあるが、その間は小さな祠に祭られていたものだろう。
 この話をまとめるに当たっては、深谷浩一氏に多大な資料収集のご協力をいただいた。


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