夜にげしたお代官

 永く続いた江戸時代が終わり、明治という新しい時代が始まろうとしていました。 幡豆の村は赤坂(宝飯郡音羽町)陣屋の支配下におかれ、中村(西幡豆中村郷)陣屋には尾崎浅蔵という代官がおりました。

 慶応四年(一八六八)は、たび重なる大雨や大風で田畑があれ、大変な不作となりました。困った百姓たちは、年貢を減らしてくれるよう代官に願い出ました。代官は百姓の苦しさを知っていました。そこで、おそるおそる赤坂陣屋に申し出たのでした。
 十一月のある日、赤坂の役人が田畑の様子を調べにやって来ました。ひととおり見て回った後、茶をすすりながら役人は言いました。
「なるほど、米は不作のようじゃ。年貢は引かねばなるまいな」
「あ、あのう、申し上げます。畑も不作で減らしてもらいたいと……」
「それはならん、お上も金がいりようじゃ。百姓の言うことをいちいち聞いておるわけにはいかん」
「は、はあ……」
 気の弱い代官は、それ以上何も言えなくなりました。
 そして、ついに米の年貢は一割引くが、畑の年貢はそのままというお定めになりました。

 この知らせを聞いた百姓たちはたまりません。
「何で畑も引いてくれんのだ。麦も大豆もぜんぜんできんかったでねえか」
「お上で金がいるか知らんが、おれたちゃあ、どうなるだ!」
「そうだ、ご時世もかわったことだ。おれたちだけ、がまんするこたあねえ」
 だれもが不満をもらしました。
 それが、いつしか赤坂の役人の耳に入り、馬に乗って代官の所へ飛んで来ました。「百姓どもがさわいでいるそうじゃな、とんでもないことだ。すぐに静かにさせろ。お上の耳に入ったら大変なことになるのじゃ」
 役人にはどなられ、百姓たちには毎晩のようにさわぎを起こされ、代官はため息ばかりついていました。

 そんなある夜のことです。
 百姓たちが数十人も集まり、大庄屋の屋敷へおしかけました。
「あの年貢はだれが決めただ!」
「大庄屋!畑の不作はおまえもよう知っとるだらあ」
 百姓たちは口ぐちにさけびながら、つめ寄りました。
「わ、わかった。落ち着け!話は後でゆっくり聞くから、今夜はかんべんしてくれ」 大庄屋はやっとのことでその場を治めましたが、百姓の言い分を聞いて、寄り合いを開く約束をしました。

 暮れもおしせまった十二月十三日の夜、安泰寺でその寄り合いが開かれました。
 幡豆の二十の村から百姓の代表、庄屋、大庄屋合わせて百六十人ほどが集まり、そこへ赤坂の役人と代官がやって来ました。
「お代官さま、このたびの年貢の決め方には、承知しかねますが……」
 庄屋の一人が口をきると、それが合図のように、百姓たちから次つぎに声があがりました。
「畑の年貢が引けんとはどういうことだ」
「ちゃんと調べたのか?帳面には何と書いてあるんだ。見せろ!」
 本堂は大さわぎになりました。
 二、三人がこぶしをふり上げてつめ寄って行きます。
 こわくなった代官は、すきをみて、にげるように姿を消してしまいました。

 陣屋にもどった代官はいつまでも考えこんでいました。
(もう、お上の力で百姓をおさえつけることはできん。百姓の勢いは強うなるばかりで、わしの手にはおえん。この陣屋にいても何もできん。赤坂からおとがめがくるかもしれぬし……)

 あくる朝、庄屋たちが六人ほどで陣屋へやって来ました。陣屋の部屋という部屋を探しました。
 しかし、代官はどこにもいませんでした。
 部屋も机もそのままなのに、代官の姿だけが消えていました。


〔 解 説 〕

 この話は、牧野栄助の「百姓造名石覚帳」にしるされているが、いわゆる安泰寺騒動として知られている。
 慶応四年(一八六八)の九月、年号が明治に改められた。まさにその年のでき事だったが、降ってわいた事件ではなく、蓄積された百姓の不満が、年貢をきっかけに表面化したものだろう。ちなみに十六年前の代官暗殺事件や十三年前、安政二年から三年にかけての直訴騒動などとともに維新に向かう流れの、一つの渦であったように思われる。


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